第87話 来る
第86話のおさらい
自分が静一だと言うしげるに静一はまともにとりあわず、しげるに帰宅を促す。
突然しげるが、かわいそうと呟く。
「半分、死んでるんさね。」
驚き動きを止める静一。
「しげちゃん……かわいそうに。ゆがんじゃったんね。」
自分が静一で、目の前にいる静一をしげるだと思い込み、しげるは続ける。
「半分……死んだまんまで。殺された……のに……死ねなかったんだいね……つきおとされて……ほっとかれて……」
静一は明らかにおかしな様子のしげるから視線をそらすことが出来ない。
「ねえ…僕を…置いていくん……? 置き去りに……して……」
「もどして……僕が……ゆがむ前に……」
「もどして……」
呆然としげるを見つめていた静一は、ようやくしげるに応える。
「しげちゃん……置いていくんじゃない…よ…」
「元には…戻せない……けど…でも…」
「かわいそうじゃない。かわいそう…なんかじゃ…」
「僕は……僕だってゆがんでる。でも……生き返れる。半分死んだままじゃない。」
そして静一はしげるに手を差し伸べて再び帰宅を促す。
「こんなところ…もういなくていい。」
しげるは、どこへ帰るのかと静一に問う。
そして力なく曲げた両手首を顔の前に上げて続ける。
「じゃあ僕は…誰…?」
、
君はしげちゃんだよ!! と語気を強める静一。
しかししげるはすぐに、ちがう、と静一の言葉を否定する。
「僕はママだ。」
しげるの全く予想外の発言に、静一は言葉を失っていた。
「ママは…消えない。ママは…僕にくっついてる。」
「くる…」
「帰ってくる…帰ってくるよ…帰ってくるよ…」
静一は、何を言っているのかとしげるに問い、あくまで帰宅を促す。
「もう……帰ろうよ。しげちゃん…」
「…静一…」
静一の耳にかすかに声が聞こえる。
思わず振り向く静一。
「…静一…」
静一を呼ぶ声は、背後にある森から聞こえる。
ママ、と呟いたしげるの顔は表情がわからなくなっていた。
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登場
静一は拘置所にいるはずの静子の声が聞こえた気がして、背後の森に視線が釘付けになっていた。
「ママ…ママだ…」
不気味な笑みを浮かべるしげる。
「…静一…」
森から聞こえて来る静子の声に心を乱され、静一の呼吸は激しくなっていく。
「…ママ…ここだよ…ママ…」
まるで静一になったかのように静子を呼び続けるしげる。
森の奥に女性の人影が浮か上がる。
静一は驚きのあまり言葉を失っていた。
森の中から静一を呼ぶ声は続く。
静一は両腕で顔を覆い、強く目を閉じていた。
「…くるな……だまれ…!」
「ママが、よんでるよ。」
背後のしげるが静一に呼びかける。
「やめろ!! 消えろ!! こんなのうそだ!! 幻だ!!」
顔を覆ったまま拒否する静一。
「ママなんて知らない!! どうでもいい!! 僕はもう関係ない!!」
うそつき、と突っ込むしげる。
「ママを頭の中で殺して、逃げられたつもりなん?」
「本当のことを隠したままじゃ、逃げても逃げてもどこへも行けないよ。」
「……何が……何がだよ……」
静一は背後から聞こえて来るしげるに問いかける。
「誰だよ。おまえは。」
「何がわかる…」
「僕の苦しみが…わかるかよ……っ!!」
顔を覆っていた両腕を解き、勢いよく後ろを振り返る。
そこに立っていたのはしげるではなく静子だった。
本音
驚きのあまり、静一は顔を引き攣らせて絶句する。
「…静一…」
静子は感情が宿っていない目で静一をじっと見据えていた。
「何がそんなに、苦しいん?」
恐怖で暫く固まっていたが、静一は口を開く。
「苦しいよ……ずっと…」
「ず~~~~~~~っと、苦しかったよ……!」
「僕を…!! 僕から僕を奪ったんだ…!! あなたは…!!」
静一の表情と語気には怒りと憎しみが籠っていた。
「全部!! あなたの思い通りに生きてきた!!」
静子は全く表情を変えることなく静一を見下ろしている。
「どれいになって!! 自分から…どれいになりたいって思わされて!!」
「自分を…自分自身を、毎日毎日毎秒毎秒、押し殺して傷ついて、傷ついてるってことも気づいちゃいけないまま、殺し続けて……苦しかったよ!! 死ぬほど!!!」
感想
これは夢?
今回はこれ以上ないというくらい静一の本音が正確に描かれていたように感じた。ちょっと説明的過ぎではないかと感じてしまうほどに……。
静子に自分を奪われたという静一が示した認識は、ここまでこの物語、この親子の在り方を見てきた読者のそれと全く同じだろう。
少なくとも自分は、静一はここまで正しく自分の置かれた状況を認識し、言語化できるようになったのかと感慨深かった。
自分を取り戻したと必死で静子に向って叫ぶ静一がとにかく苦しそうで、見ていて辛い。だが、これも静一が母によって負った心の傷から立ち直るための重要な一歩なのではないかと思った。
静一がもっと穏やかに自分のこの気持ちを静子に伝えられていたなら、静一はすでに静子のことを完全に乗り越えたと思えたけど、この様子では静子によって負った心の傷が癒えるにはもう少し時間がかかりそうだ。だが確実に快方に向かっていると感じた。
前々回くらいから静一は今現実にはおらず、夢を見ているのではないかみたいなことを書いた。今回の話で、よりその可能性が高まったと思う。しげるがあまりにも静一の心の傷について知り過ぎているし、そもそもしげるが拘置されているはずの静子の姿に変化するなど、どう考えても夢の中での出来事としか思えないほど常軌を逸した状況が連続している。
仮に静一の夢なら、彼が自分の本音を、一番ぶつけなくてはならない相手である母の姿に絶叫できたことは、彼が母を乗り越えるための大切な一歩になるんじゃないかなと思った。
夏の事件以降、静一は自分が何によって傷つき、精神的に抑圧されているかにきちんと向き合うことを避けていた。
母がその原因ではないかと思いながらも、それでも母が大切で、彼女を守りたいという静一の子が母を思う当たり前の気持ちに邪魔されてきたように思う。
そして、それが静一の心の傷を深く、大きく広げていった。どう考えても母から離れない限りは静一が抱える問題は解決しないことは明白であり、そのままの状況が続けば、最悪静一の自死の可能性すらあったと思う。
しかし今回静一は、大切に守らなければならないと思い込まされていた静子の存在こそ、自分を苦しめる原因だったと自覚し、それを静子に向って主張できた。
それは少なくとも、これまでのように自分を苦しめる静子という存在に自ら進んで寄り添うような真似は今後一切しなくなるということだ。
母との決別は静一の中ではもうとっくに結論が出ていたはずだったが、今回の話でようやく心の底からそう思えるようになったということではないか。母を見捨てることへの疚しさや罪悪感との決別とでも言うのか……。
静子が叔母夫婦によって警察に連行される時も、静一は最後まで泣いていた。
自分を苦しめるのが静子であることを自覚しながらも、玄関近くの廊下での静一は、無意識下では彼女を守らなくてはいけないという意識で満たされていることを証明するかのように振舞っていた。幼子が母を求めるように自動的な行動だった。
つまり、その時点ではまだ静一の中で全く気持ちの整理がついていなかった。
しかし静子が家からいなくなったその夜、母の不在に泣き腫らすどころか、心配事が消えたかのように何ともほっとした表情を浮かべる静一……。
静一が自分の本音に向き合い始めたのは、それからだと思う。
刑事にかけられた言葉
そして極めつけは警察で刑事による事情聴取だった。
事情聴取でありながらも、静一にとってはセラピーのような効果をもたらしていた。
ある意味では話を聞くプロである刑事によって自分の心の内奥にあるものを引きずり出されていく過程で、静一は刑事からかけられた言葉からこれ以上ないくらいの気付きを得る。
>「いいかい。君は一人の人間なんだよ」
>「お母さんとは別の、一人の人間だ」
>「君が感じた事、思った事、それはみんな君のものだ」
刑事からかけられたこれらの言葉が、静一にとっては何よりの治療だった。
この刑事との出会いは大きかった。静一の話を聞いていく内に、刑事は静一が静子に心を囚われていると直観していたように感じる。だからこそ出た言葉なのではないか。
静一の周りの人は静一の話をきちんと聞こうとしなかったし、そもそも静一も話すつもりはなかった。何しろ静一は黙ることで静子を守っていたわけだから……。
静一の静子を思う気持ちが、静一を誰も助ける人間がいない袋小路に追い込み、状況をより悪化させていたということになる。何とも救いようのない話だ。
仮に静子が捕まらなくても、静一が相談できる人が他にいれば良かったのかな……。
静一から信頼され、刑事のようにきちんと静一から話を聞きだし、自分は自分だと言葉をかけられる大人がいたなら静一は長く苦しまなかったかもしれない。
一郎、叔母夫婦、教師……。静一にとってはいずれもその対象にはならなかった。
そういえば母親に虐待されているにも関わらず子供はそんな母親を庇ったりするらしいが、静一にとっても母親というのは他に並ぶものが無いくらい大きな存在だった。
そして静子はその静一の気持ちを利用した。静子は親に愛されなかったと言っていたけど、一体彼女に何があったのか読者が知れるチャンスは今後来るのだろうか。
静一の叫びは次回に続く。
それが静一が立ち直ることに繋がることを期待したい。
以上、血の轍第87話のネタバレを含む感想と考察でした。
第88話に続きます。
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