第86話 僕は誰?
第85話のおさらい
大雪が降る早朝4時、静一は山に向かうというしげるを追いかけていた。
山に二人で登るとうわ言の様に呟くしげるを、静一は必死に止めて、帰宅することをすすめる。
しかししげるはあくまで山に登ると譲らず、雪の積もった道に身体を投げ出す。
しげるは倒れたまま笑って、山はあっちだと誘導し続ける。
「山…すぐそこだがん。しげちゃん。」
突如、静一はしげるにしげちゃんと呼ばれ驚いていた。
その虚を突くように、突如しげるは静一を振り切って早足に歩き出す。
慌ててしげるを静一。しかし中々追いつかない。
やがてしげるは立ち止まり、道の先を見上げる。
その道は高台に続いていた。
「ここだ…ここが山だ……」
しげるは静一を置いて、その道を登り始める。
ダメだよとしげるを呼び止めようとするが、どんどん先に行ってしまうしげるに負けて、静一はひたすらしげるの後をついていく。
階段を登り切り、高台の柵の前で足を止めるしげる。
またここにこれた、と笑顔を浮かべながら、しげるは静一に振り返る。
「ほら。もっとこっち来てみ。」
しげるの目は笑っていない。
「しげちゃん。」
なぜ自分の名前を言うのか? としげるに当然の問いかけをする静一。
その瞬間、しげるの表情から笑顔が消える。
「しげ…ちゃん…せい…ちゃん…」
そして、静一を見つめる。
「ママ…」
絶句する静一。
しげるが静一に呼びかける。
「僕は、静一だ……よ…」
第86話 僕は誰?
しげるの訴え
自分のことを静一だと主張するしげるを前に、呆然とする静一。
「何……言ってるん……?」
静一はしげるに帰宅を促す。
「かわいそう……」
しげるが呟く。
「半分、死んでるんさね。」
「え?」
「しげちゃん……かわいそうに。ゆがんじゃったんね。」
静一は言葉を失っていた。
「半分……死んだまんまで。殺された……のに……死ねなかったんだいね……」
鼻水を垂れ流し、明後日の方向を見つめながらしげるは呟き続ける。
「つきおとされて……ほっとかれて……」
静一はしげるの顔から全く視線をそらすことが出来ない。
しげるの視線が正面にいる静一とぶつかる。
「ねえ…僕を…置いていくん……? 置き去りに……して……」
静一はしげるの問いかけに応えられない。
硬直したまましげるを見続ける。
「もどして……僕が……ゆがむ前に……」
しげるは表情を悲しそうに歪めて、切々と訴える。
「もどして……」
「僕はママだ」
呆然としげるを見つめていた静一は、やがて意を決したように口元を真一文字に結ぶと、しげるの言葉に応え始める。
「しげちゃん……置いていくんじゃない…よ…」
「元には…戻せない……けど…でも…」
しげるをきちんと真正面から見据えて、静一は続ける。
「かわいそうじゃない。かわいそう…なんかじゃ…」
「僕は……僕だってゆがんでる。でも……生き返れる。」
言葉に力を籠める静一。
「半分死んだままじゃない。」
そして静一はしげるに、帰ろう、と言って手を差し伸べる。
「こんなところ…もういなくていい。」
しげるは静かに静一に問いかける。
「…どこへ帰るん?」
力なくだらりとした両手首を顔の前にもってくるしげる。
「じゃあ僕は…誰…?」
、
静一はしげるに手を差し伸べたまま答える。
「しげちゃん…君はしげちゃんだよ…!!」
「ちがう。」
しげるの左右の目がそれぞれ別の方向を向いている。
「僕はママだ。」
思わぬしげるの発言に静一は言葉を失う。
声
「ママは…消えない。ママは…僕にくっついてる。」
突拍子もない言葉を発したしげるに、静一は驚いていた。
「くる…」
だらりとした両手首を顔の前に上げて、しげるは繰り返す。
「帰ってくる…帰ってくるよ…帰ってくるよ…」
思わず、何? と静一が問いかける。
「何言ってるん…?」
そして再び帰宅を促す。
「もう……帰ろうよ。しげちゃん…」
得体の知れない恐怖のためか、しげるを見る静一の目は見開いていた。
「…静一…」
雪の降り続く中、静一の耳に、わずかに自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
振り向く静一。
「…静一…」
声は背後の林から聞こえていた。
白い息を吐きながら、静一の視線は林に釘付けになっていた。
「…ママ…」
そう呟いたしげるの顔は暗く、表情の判別がつかない。
感想
現実感が無い
これは果たして現実なのか……?
やはり静一は悪夢を見てるだけなのではないか?
正直自分は最近の展開に関して何が起こっているのか理解するのに必死で、おいてけぼりになっているのではないかと不安ですらある。単に読解力に乏しいだけなのかもしれないけど……。
まともな感覚で読んでいい話なのか? もし、その不安感、気持ち悪さを読者に与えることで、静一の苦しみを疑似体験させることが狙いなら、自分はその思惑に見事にハマってると思う。
なんかマジで気持ち悪くなってきたわ…。
しげるの様子は明らかに異様で常軌を逸している。でも自分が何をされたのかはかなり正確に把握してるようだ。
でも自分と他者の境が曖昧になっているようにも見える。
静子に突き落とされ、放置された。
その結果、今の自分は以前の自分とは全く変わってしまった、ゆがんでしまったから、ゆがむ前に戻して欲しいと言っている。
事故後の様子からは考えられないほど回復している。ただ元通りには程遠い。
静一はそんなしげるの訴えを正確に受け止めた。
さらに、あの事件以来、自分も半分死んだようなもので、でもその状態から生き返ることは出来るとしげるを励まそうとしている。
いや、しげるというより、自分自身にそう言い聞かせているように見える。
正直、かわいそうじゃないというしげるへの呼びかけも、しげるに言っているようで、実は自分自身に言い聞かせているようにしか思えない……。
自分はあの半分死んでいた頃を完全に脱した。つまり生き返ったのだ、と信じたがっているとでもいうか……。
瀕死の重傷を負ったしげるに起きた変化はもう取り返しがつかない。そして静一もまた、物理的に傷を負ったわけではないが、心には大きな傷を負った。
しげるは以前のほぼ植物状態の頃よりは劇的に回復している。そして事故以前の自分と今の自分が全く異なる自分になっていることまでも認識出来るようになっているくらいに……。だからこそ、もう以前の自分には戻れないという過酷な現実に苦しんでいるように見える。
わざわざ自分が静一だと言ったけど、それこそがしげるが新しく抱えたゆがみの一部なのではないか。自分のままでいたらおかしくなるから、静一を演じて、逆に自分自身に見立てた静一に呼びかけているのか……?
二人のことを全く知らない人が二人の会話している様子を見たら、単純にしげるの頭がおかしいとしか思えないだろう。しかしその実、しげるはまともなのだと思う。
おそらく自分に起きた出来事、理不尽にも自分が抱えてしまった不幸を受け止めきれないんじゃないか……。
でもその後の、「僕はママだ」としげるが発言したところで、果たしてしげるがまともなのかわからなくなった。やはり現実を生きておらず、夢の世界の住人になってしまったのではないかと思うようになった。
現実と向き合えないということなのか。それとも、やはりここまで3話に渡る静一としげるの話は静一の夢落ちで終わるんじゃないか?
ママは消えない、僕にくっついてる、帰ってくるとしげるが言ったあと、背後から「静一」と自分の名を呼ぶ声が聞こえて来るというのも、静一の見ている悪夢っぽさを強調しているように思う。
しげるは本当にそこにいるのか?
さらにダメ押しとして、しげるの顔も、もはやしげる本人なのか判然としていない……。
静一となって静一に語り掛けるしげるが怖かったが、ラスト近くの僕はママだと言い始めるあたりからのしげるのモンスター感がすごいわ。
これが夢じゃなく現実に起きていることだったら、静一はいよいよ精神がおかしくなりかけているのかもしれない……。
一人でまだ陽の出ていない早朝に外に出て、しげるの幻を見て、高台までやってきた? もしそうなら病院の心療内科に行こうよ。
とにかく、しげるがあまりにも色々なことを知り過ぎていることにどうしても違和感が拭えない。
山に登ると言って静一を誘導したその先が、静一投げ落とし事件が起きた忌まわしき場所である高台だったのも、偶然とするには無理があり過ぎる。
そしてラストで聞こえてきた静一の名を呼ぶ声……。
静子なら「静ちゃん」と呼ぶのではないか?
それなら声の主は静子ではなく、しげるを探しに来た叔母の声? でもそれならしげるの名を呼ぶはず……。
やはり静子の声だと考える方が自然なのか。そうなると静子は拘置所にいるので、必然的に静一が聞いたのは幻聴ということになる。
おそらく次号では、今回の話のラストで表情の判別がつかなくなったのしげるの顔が、静子の顔になっているのではないだろうか。
もしそうなら静一の悪夢説が濃厚だ。
もし現実だったらいよいよ静一の頭がおかしくなったのだと思う。
うん。やっぱ色々と怖すぎるよこの作品……。闇が深過ぎ。
以上、血の轍第86話のネタバレを含む感想と考察でした。
第87話に続きます。
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