第72話 欲求
第71話のおさらい
静一は静子を乗せ警察に向かう伯母夫婦の車を追いかける。
しかし運転している伯父は速度を緩めない。
それでも静一は、泣きながら車を追いかける。
しかしついに走るのを止めた静一。
どんどん車が遠ざかっていくのを、息を切らして見送っていた。
「静一!」
立ち尽くしていた静一に声をかけたのは一郎だった。
「パパ…行ってくるから。警察に。」
一郎は静一の隣に車を停止させている。
「静一は家で待ってな。」
大丈夫だから心配すんなと、一郎は無理やり笑顔を浮かべる。
「静一はいい子だ。男の子だもんな。待ってるんだぞ…!」
一郎の車が走り去るのを見送った静一は、暫し呆然と立っていたが、やがて自宅への道を歩きはじめるのだった。
自宅に到着し、玄関のドアを開けて家の中に入っていく。
台所、居間。
そして二階に上がり、両親の部屋と次々に確認していく。
そうして、最後に自室に入った静一はベッドに腰を下ろしてから、ふと窓から見える空を見上げた後、大きく深呼吸する。
「はあ…」
ため息を吐いた静一の表情は緩んでいた。
第72話 欲求
ベンチで
静一はベンチに一人座っていた。
目を閉じ、鳥の鳴き声や木のざわめきに耳を澄ましていると、隣に誰かが座る気配を感じる。
隣に座ったのは吹石だった。目が合うと僅かに微笑む吹石。
静一は吹石に見惚れていた。
吹石の視線は静一を真っ直ぐ捉え続ける。
「吹石…」
吹石が静一の頬に触れる。
笑顔の吹石に引き寄せられるように手を伸ばした静一は、彼女の体を抱きしめる。
「吹石…ごめん…」
吹石を抱きしめたまま謝罪する静一。
「僕…僕は……」
ギィイッ…
不穏な音が聞こえた瞬間、静一は吹石から離れる。
息を切らして呆然とする静一。
「長部。」
吹石は優しく静一に語り掛ける。
「大丈夫、お母さんは行っちゃったから。」
静一は吹石の両肩に手を置いて正面から見つめる。
「長部。長部の、好きなようにしていいんだよ。」
暫し見つめ合う二人。
静一は吹石のジャージを脱がせると、その胸を触り始める。
そして夢中になって吹石を押し倒すのだった。
生気を取り戻す静一
静一は真っ暗な自室のベッドの上で目を覚ます。
窓の外は暗かった。
ふと視線を自分の下半身に向けると、股間が盛り上がっている。
静一は夢と同じように息を荒くし始める。
そして興奮した様子で自身の局部を晒すと、夢中になってしごき始める。
自身の手の平に精を放った静一。
恍惚とした表情で、出たものをじっと見つめて微笑む。
静一は居間でカップラーメンを黙々と食べていた。
その表情には生気が漲っている。
車が停まった音が外から聞こえる。
家の中に入って来たのは一郎だった。
「ただいま……」
居間の入り口に立つ一郎。
「静一…せい…い……いぐ…う…い……」
見る見るうちに一郎の顔が悲しみに歪んでいく。
「うおお…うおおお~ん…!!」
静一は自分の目を憚ることなく泣き始めた一郎の様子を前に、ただただ呆気にとられていた。
「ううっ…うっ…ごめんな静一…」
一郎は眼鏡を外して目元を手で覆う。
「ママ…つかまっちゃったい……」
静一はそんな一郎を黙ってじっと見つめていた。
「ごめん…ごめん静一…ごめんなあ…」
涙を拭い、一郎は話し始める。
「静一…おまえも…話してもらわなくちゃならないんだ……」
「明日…警察が…おまえの話を聞くって…」
静一は一郎の話に反応せず、まるで放心したようにぼうっとしていた。
感想
自分を取り戻した静一
静一がすごくイキイキとしてる。
顔つきに生気が満ち、これからの自由な人生にワクワクしているのが伝わってくるようだ。
彼が今回行った自慰行為は、男として健全な成長を遂げている一つの証拠と言って良いと思う。
夢の中では、まだ静子の呪縛の残滓が見受けられるものの、これから静子がいない、自由な生活を謳歌できることに無意識でウキウキしているのが分かる。
それに夢の中で静子の気配を感じて恐怖したのも心配無いと思う。
静子がいなくなったその日の夜から、完全に静子の影響が彼の心の中から消える方が不自然だ。
今後は時間が経過するにつれて、静子の影響から徐々に自由になれるだろうなと感じた。
これまでは、静子に抑圧された不自然な状態が普通だった。
その枷がなくなることで、以前よりは遥かに溌溂とした静一の姿が見られるようになるだろう。
以前は、静子に精液まみれのパンツを見つけられ大目玉を食らってたっけな……。
あれはさぞトラウマだっただろうと思う。
おそらくあれで、静一にとって性欲とは否定すべきものとして刷り込まれた。
静子と一緒にいる限り、静一の欲求は抑圧されたまま、下手をすれば犯罪として歪んだ形で外に出ていた恐れがあった。
しかし今回の話で、これまで静一の行動に見られなかった自慰行為が行われた。
これは、静子がいなくなったことで静一が持っていた本来の欲求が戻ってきたことを示す直接的かつ象徴的なシーンであることは明らかだ。
タイトルが”欲求”だし、非常に分かりやすい。
もし女性の方がこの文を読んでいたら、中学生くらいの男の子の性の目覚めはこんな感じですと言っておきたい。これ、かなりリアルです。
気持ち悪いかもしれないけど、本当にこんなものだから。
男性が女性の性について良くわからないように、きっと女性にとって男性の性とは何なのかよく分からないと思う。
息子さんがいる女性は「こういうものなのか」と密かに覚悟しておくだけでも有用なんじゃないか。いざとなって、うろたえずに済むというか……。
あと、すごく悲しいことだが、静一が吹石にアプローチしてももう難しいだろうな……。
もちろん吹石がこれまで静一に見せた想いの強さを思えば、ひょっとしたら……、という期待も完全に無いとまでは言えないだろう。
しかし何しろ静一が吹石に投げかけた言葉が酷過ぎた。
いかに吹石の静一への想いが純粋で強かったからと言って、あの時へし折られたその想いは今ではもう完全に脈を失っていて当たり前と言える。
それに一番の障害として、静一が目撃したように、既に他の男とくっついているんだよな……。
果たして静一が望んだからといって、吹石が別れてまで静一の方を向いてくれるかどうか。
ぜひ静一から熱意をもって吹石にアプローチして欲しい。もし両想いになったなら、これまで報われなかった分カタルシスがあってかなり嬉しい。
証言
まぁ、このままでは終わらないよな……。
警察に行って証言する必要があると。
静一はあの日静子としげるがいた場面に立ち会っている唯一の目撃者であり、警察が証言を求めないはずがない。
以前、しげるが担ぎ込まれた病院では警察に対して静一は静子を守ろうという一心で嘘を言ったわけだけど、果たして今回はどう答えるのか?
今回の話の流れから普通に考えれば、母がしげるを突き落としたのを見ていました、と正直に証言するだろう。
でも以前の嘘とは正反対の証言をすることを気に病み、極度のストレスに見舞われて心のバランスを失わないか心配……。
あと、何より重要なのは、静子の呪縛を自ら断ち切れるかどうかだろう。
今回静一が欲求を取り戻したのは、周りに誰もおらず、ただ自分の本能に従っただけだった。
しかし警察に真実を話すことは、自らの手で静子に引導を渡すことを意味する。
それを行うには、きちんと彼自身が精神的に静子と決別していなくてはならない。
あの夏の日、静子の犯行直後に静一はただ一人の母親を守ろうと必死だった。
母親を守ろうとする気持ち自体は否定されるべきではないが、何しろ静子が犯したのは傷害罪、殺人未遂という立派な犯罪。これが正当防衛ではなかったことも、静一は理解しているはずだ。
静子という一人の人間の犯罪を証言し、これまで知らず知らずに静一が陥っていた静子への過度な依存を断ち切ることが出来るのか。
真実の証言を行うことは、すなわち静一が自分を確立する第一歩になるだろう。
これまでの話からは、静一がこのまま成長したらかなり歪んだ人間へと成長していくだろうと容易に予想でき、とても心配だった。
しかし静子との歪んだ絆を一度自ら断ち切ることで、少なくとも以前よりは伸び伸びと育っていけると思う。
警察に告発する形になるとはいえ、静子と一生顔を合わせてはいけないわけではない。
時間が経過してお互いに気持ちが落ち着いた時、再会が望みならばそうすれば良い。
大人になればもし静子が大して変わっていなくても、静一は上手に対処できるだろう。
色々と妄想が捗ってしまったが、次回以降で警察で静子の犯行について証言する流れは間違いない。
果たして静一は真実を証言し、静子から精神的に自立できるだろうか。
以上、血の轍第72話のネタバレを含む感想と考察でした。
第73話に続きます。
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