第77話 せいちゃん
第76話のおさらい
静一は実況見分に立会人として参加するため、パトカーで山に来ていた。
駐車場に一郎を残し、現場を目指して刑事たちと一緒に山に登っていく。
現場までの道中で刑事から、この道を登って行ったんだね? と確認するように問われる静一。
「……はい。」
静一は、楽しそうに山に登っていた一郎や親戚たちの姿を思い浮かべながら山道を登っていく。
黙々と登っていた静一の耳に何かが聞こえ始める。
同時に、林の中に誰かが立っている気配を感じていた。
(静ちゃん……静ちゃん……)
(待って……待って……)
(行っちゃダメ……ダメ……)
(静ちゃん………)
静子からの懇願するような声が聞こえる。
しかし静一は足を止めることなく、黙々と現場に向かう。
静子がしげるを突き落とした”現場”に到着すると、刑事が早速事件の再現を行うと静一に声をかける。
現場に立入禁止の黄色いテープが張られ、警察官たちが実況見分の準備を終える。
「よし。じゃあはじめよう。おい頼む!」
刑事の号令で静一の前に出てきたのは、しげるの格好をした警官だった。
しげる役として崖に立つことになるため、命綱としてハーネス安全帯を装備している。
この人をしげる君だと思って、と前置きし、刑事は静一に質問する。
「しげる君はどこに立っていた? 教えて。」
あそこだと崖を指さす静一。
しげるの格好をした警官が崖に向かう。
「そう…です…向こうを向いて…こっちを振り返る……」
静一の誘導によりそこに現れた光景は、まさにあの夏の日に静一が見たものだった。
お母さんはどこから来たのかと刑事に問われた静一。
「………ママ……ママは………こっ…こっ…ここに僕が…立っていて…せっせっせっ『静ちゃん』って声がして…」
吃音交じりに答える静一。
「ふっ 振りっ向いたら…」
後ろを振り返ると、そこにはあの日の姿をした静子が立っていた。
静一は驚きのあまり固まっていた。
しかしすぐに、立っているのが静子ではなく、女性警官だと気づく。
(ダメ……やめて……)
静一には静子の声が聞こえていた。
刑事は女性警官をお母さん役だと言って、実況見分を進める。
「お母さんはここに立っていた?」
呆然としていた静一だったが、刑事に声をかけられてようやく返事をする。
「……はい。そうです…」
静一は、小刻みに震えていた。
第77話 せいちゃん
静子の圧力に耐える静一
しげるに扮した男性警察官と静子役の女性警官が崖の近くであの日の再現をしているのを、静一はじっと見つめていた。
冬で、その場から動いていないにもかかわらず静一の顔を滝のような汗が濡らしている。
崖の方を見つめながら呼吸を整えている静一に、刑事は大丈夫かと気遣いつつ、証言を求める。
「お母さんがしげる君を抱きとめた。それでどうなった?」
崖では静子役の警官がしげる役の警官の肩に手を乗せている。
「それで……それ……で…」
答えようとしていた静一は、背後に静子の圧力を感じていた。
「…マッ…マッ…ママは……『だから危ないって言ったでしょ?』って……」
懸命に証言を続ける。
「そしたら……し…しげちゃんが…びっくりしたような顔をして……『おばちゃん』って……」
「ママの……ママの顔が、笑ってる…ように見えて……」
両手で突き落とす予備動作をしてみせる静一。
「それで……こう……こうして…しげちゃん…を……」
それを受けて刑事は、しげる役を警官から人形に替えるように指示する。
しげるの格好をした人型の人形を静子役の警官が抱きとめている。
目を見開き、静子役の警官を見つめる静一。
「それで……それで……ママっは……ママッ…ママッ…ママッ…マッ……」
静一は静子役の警官が抱いているしげる人形ののっぺらぼうの顔の部分に人の顔が浮かび始めるのを感じていた。
最初はうすぼんやりと目、鼻、口が浮かんでいた程度だったが、間もなくその顔ははっきりとした形を成す。
それは幼い頃の自分の顔だった。
高台で、静子に抱っこされながら笑顔で向き合っている記憶を思い出す。
過去
静一の脳裏に幼少期の記憶が鮮明に甦る。
笑顔で靴を履くように促す静子。
「いいところ つれてってあげる」
笑顔で幼い静一の顔をじっと見つめながら呼びかける。
「どこお?」
あどけない表情で質問する静一。
静子は、楽しいところと答えながら静一に靴を履かせる。
「ね ままもいっしょにいぐから」
「ね いご」
静一は頷き、静子と手をつなぐ。
目的地に向かう道中、静一はどこに行くのかと問いかける。
静子は静一を見つめる。
「ままがね ずうーっと ずうーっと ずうーっといきたかったところ」
そう答えた静子は笑顔だった。
「せいちゃんもきっとすきなところだよ」
「へえー そなんだあ!」
無邪気に笑う静一。
二人は高台に来ていた。
「まま ここ?」
景色を見下ろしながら静子が呟く。
「せいちゃん たかいねぇ」
遠くに空き地が見える。
ほんとだ、と静一。
静子は、だっこしてあげる、と言って、静一の両脇に手を入れて持ち上げる。
静一は持ち上げられながら、静子と目を合わせていた。
「………まま?」
静子の表情からは、さっきまでの笑顔が消えていた。
「わたしもう きえることにする」
「だからね おまえもきえるの」
笑う静子。
「せいちゃんがさきね」
そう言うと、静子は柵の向こう側に静一を放るのだった。
感想
懸命に証言する静一
静一は静子の圧力を感じながらも、それに負けずに自分の見たままを刑事に証言していた。
その様子から、静一は懸命に戦っているんだな……と思って辛くなった。
静子のせいで大変な目に遭っているのに、それでも静子の支配が抜けきらない。
しげるを突き落とした直後の母の様子を見て、自分が母を守らなければと誓った静一に、母を心の底から嫌いになることなどとてもできない。
親に引導を渡さなければならないなんて、成人していても辛いだろう。心の整理なんてつくはずがない。
この漫画はどこにでもいるごく普通の中学生に過ぎない静一の負う精神的負担があまりにも大き過ぎる。
母が罪を犯した瞬間を丹念に思い出して、正確に証言することを強いられるという拷問に耐えていたと思ったら、今度は別の記憶の扉が開いた。
それもまた、ある意味では母がしげるを突き落とした時よりも思い出す上で心を消耗してしまうような過酷な記憶だった。
甦った幼少期の記憶
実況見分中に静一の脳裏に甦ったのは、幼い頃の記憶だった。
まさか静子が静一と無理心中しようとしていたとは……。
かなり衝撃的だ。
静子は大分昔から壊れていたんだな。病み過ぎ。
結婚して子供を作ったら救われる、変われると期待していたけど、でも何も変わらなかったから絶望したという感じなのだろうか。
そんな希望すら持っていなかったように思えるんだが……。
静一を落とす直前の笑顔が怖すぎる。
しげるを突き落とする直前、静子は迷っていたように見えた。
しかし静一を高台から落とした時は迷いが見えない。
これは静一を一人の人間ではなく、自分の所有物としか見ていないからか?
1話冒頭、静子と静一が道端の猫の死体を見ていたのは、高台に向かう途中だったのかな?
度々静子と一緒に猫の死体を観察している記憶が描写されるが、子供の頃に静子に落とされたことを思い出す前触れだったのかもしれない。
静一が幼少期に腕を怪我したのは、静子に投げ落とされた時に負った傷である可能性がある。
しかし結構な高台から落とされて、果たして腕の怪我だけで済むものなのか?
幼い子供は高いところから落ちても助かることがあるらしい。
だから奇跡的に腕に傷を負うだけで済むということは、あり得ないことではないのかな……。
そして気になるのは、静一を落としたあと静子はどうしたのかということだ。
静一の後を追って飛び降りていたなら無事では済まない。
ということは、飛び降りるのを中止して静一を助けに向かったとか?
目撃者がおらず、静子が「誤って静一が落ちてしまった」と事故を装えばバレないのではないだろうか。
伯母は知っていたか?
もし過去に静子が静一を落としたということが世間にバレていたなら、静子がしげるを突き落としたことを伯母が見抜いた時に、すかさず過去の所業を罵倒のネタに使うだろう。
しかし一郎との関係や伯母たちとの関係から想像するに、この時の静子の凶行はバレなかったとみるのが妥当だろう。
というか、その場合はそもそもしげるを連れて長部家に遊びに行ったり、一緒に山登りしたりするような親密な関係性を続けないような……。
やはり静子が静一を高台から投げ落としたという真相は、誰にもバレなかったんじゃないかな。
せいぜい、静一が誤って落ちたことは静子の不注意だった、と責められたくらいだろう。
伯母は静一の負った腕の怪我のことを知っている様子だったが、まさか静一が高台から事故で落ちたのではなく、静子に落とされたとは思いもしなかったということなんだろうな。
しげるが突き落とされたことを知った今、ひょっとしたら伯母の脳裏で静一もまた静子によって落とされた被害者だと勘づいていたりするかもしれない。
伯母にとって静一は静子を庇うために、自分に対して敵意を剥き出しにしてくる憎き相手だった。だからたとえ静一も被害者であったことに気付いていたとしても、情けをかける余裕はなかっただろう。
幼い静一を高台から躊躇いなく落とした静子。
静一はどうなったのか。そして静子はこの後どんな行動をとったのか。
以上、血の轍第77話のネタバレを含む感想と考察でした。
第78話に続きます。
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