第94話 あの顔
第93話のおさらい
しげるを思いっきり高台から突き落とす静一。
しげるは笑顔を浮かべたまま急な斜面を転がり落ちていく。
静一はゆっくりと手を下げ、一つ、息を吐くと静子と同じような微笑を浮かべるのだった。
そして高台から立ち去ろうとしてさしかかった林の中で、静一はそっと目を閉じる。
雪が強く降り続く中で、静一はじっと立ち続けていた。
次の瞬間、静一はベッドで目覚める。
時計で今が10時だと確認した静一は、カーテンをそっと開けて外を確認する。
天気は嘘のようにすっかり晴れていた。
しかし周辺一帯に雪が積もっている。
早朝とはうって変わった、何の変哲もない穏やかな光景を前に、静一は、すべては夢だったと安堵していた。
そっかぁ……と納得し、何気なくべッドの足元に視線を送ると、そこには早朝に外に出た際、静一が着た上着があった。
上着はまだ、雫で濡れている。
その時、二回連続でインターホンが鳴り、続けて今度は玄関のドアをドンドンと叩く音が聞こえて来る。
「おはようございまーす!」
第94話 あの顔
刑事
何度も鳴らされるチャイム。そしてドアを叩く音。
玄関に着いた静一はドアの鍵を開ける。
そこに立っていたのは二人の男だった。
「おはよう。静一君。」
その内一人、かつて事情聴取を受けた刑事は静一に挨拶すると、その流れで、今一人? お父さんは? と質問する。
刑事の視線が玄関の床に向かう。その視線を追う静一。
そこにあったのは濡れた長靴だった。
静一は特に取り乱した様子もなく、父がおそらく仕事でいないこと、そして自分がまだ起きたばかりであることを目の前の刑事に淡々と伝える。
刑事は静一に聞きたいことがあると、家に上がっても良いか訊ねる。
刑事を居間に通した静一は、テーブルを挟んで刑事と向かい合う。
あのね静一君、と刑事が切り出す。
「しげる君が、いなくなった。」
刑事はしげるの母から、朝起きたらいなくなっていたと通報があったと説明すると、静一君、ともう一度名を呼ぶ。
「玄関の靴が濡れてたけど。あれは静一君の長靴だいね。」
「外へ出たん? いつ出たん?」
静一は暫し沈黙した後、わかんないです、とだけ答える。
追及
それはどういうことだと刑事。
「さっき今起きたって言ったいね? 寝る前に外に出たん? どうして?」
「静一君これは?」
もう一人の刑事が居間の入り口に現れる。
その手には、濡れたままの静一の上着があった。
「このジャケットも濡れているけど、これだけ濡れてるんなら長い時間外にいたんかな?」
静一はゆっくりと笑みを浮かべる。
「ふしぎ……なんです……」
「夢で…夢の中で……外に出たんです…夜中……」
「雪が…積もってたから…外に…出たいって思って……夢なんに……なんで濡れてるんだんべ…」
ぽつぽつと独り言のように呟く静一に刑事が答える。
「それは……夢じゃない。」
「現実だよ。」
刑事は眉根を寄せて、静一を正面から見据えていた。
刑事の言葉を受け、静一は目を見開く。
「外に二人分の足跡があった。しげる君と…会ったんかい?」
「……夢じゃない……。夢じゃ……ないなら……」
笑みを浮かべる静一。
「僕は本当に…おかしくなっちゃったんだな……」
自白
刑事はそんな静一を前にして言葉を失う。
「僕は…僕…が…全部…僕のせいです…僕がやったんです…」
「……静一君。何をやったん?」
刑事は核心に触れるべく、静一に話の先を促す。
「夜中…外に…出たら…しげちゃんが来たんさ…ひとりで…」
静一は話し続けながら、考えていた。
(…僕……今…どんな顔してるんだんべ?)
「それで…ふたりで高台に行ったんさ。白髭神社の裏んとこの。」
刑事は息を呑んで笑みを浮かべている静一の顔を見つめていた。
(ママみたいな顔 してるんかな)
「そこで、僕は、しげちゃんを、崖から突き落としたんさ。」
がっくりと俯く刑事。
(ママ)
静一は変わらず微笑を浮かべていた。
「……わかった。」
刑事は顔を起こし、静一を見据える。
「一緒に現場へ、来てくれるね。」
静一は特に表情を変えることもなく刑事を見返している。
(本当はママもこんなふうに言いたかったん?)
この事態に際しても尚、静一の心は静子に囚われていた。
(ママ ちゃんと言えたよ 僕)
「うん。」
感想
静一の表情や態度が静子そのものに……。
本当に静子そっくりだ。
完全にホラー。
静一は静子と同様の事件を起こして、彼女と同じ立場に立ったことで、静子のことを理解してしまったようだ。
理解できて嬉しそうなのが何とも救いようがないというか……。
静一は結局、どこまでも静子の影響下から逃れられない、究極のマザコンだった。
本当に、どうしてこうなった? というのが素直な感想だ。
一体、心理学的には静一の心の中で何が起こっているのだろうか。
バレるのが思ったより早かった。
朝、伯母がしげるがどこにもいないことに気付き、警察に通報。
↓
警察、しげる突き落とし事件の関係者である長部家へ向かう。
↓
長部家の庭周辺で二人分の足跡を発見。
↓
これはひょっとして何かあったか? と疑念を抱き、長部家を訪問。
こんな感じの流れか……。
前に、もう少し捜査が難航するんじゃないかと書いたけど、あっさりだった。
伯母は朝起きて家の中から、自宅周辺を探し回ったと思う。
それでも全く見つからないから警察に通報した。それがおそらく8時~9時くらいの間だったのではないか。
そこから警察が長部家にやってきたのが、静一が起きた直後となる10時過ぎ。
警察はほぼ最短ルートを辿ったと思う。捜索を開始した時は、まさか静一が突き落としたとは思っていなかっただろうけど……。
庭に足跡が残っていたというのは、ひょっとしたら刑事が静一に口を割らせるための嘘だったのかもしれない。
だが玄関の濡れた靴や、さらには静一の部屋にあった濡れた上着に関しては、即座に静一が刑事たちが納得できる言い訳をするのは難しい。
しかしそもそも静一は罪を犯した意識すら曖昧だった。言い訳など出来るはずがない。
静一にとってあの悪夢はあくまで夢の中の出来事に過ぎず、現実にあったことではなかった。
だがそんな静一に『現実だよ』と呼び掛けたのは、以前事情聴取した刑事だった。
静一はこの一言で目が覚めたように見える。彼はつくづくこの刑事と縁があるようだ。
次回は刑事と一緒に現場に向かうことになる。
しげるが今、どんな状態なのかわかってしまう……。
しげるが見つかったという通報が警察に入っていないということは、他の捜索人員はしげるを見つけられていない。もちろんまだ捜索を開始したばかりだからでもある。
しげるが生きていて、きちんと起き上がって周辺の住人に助けを求めるとか、もしくは周辺の住人が発見、保護して、病院で治療を受けていたとしたらどうか?
果たしてしげるが転落によって負った負傷から、事件性を見抜くことなんて出来るのだろうか。それが出来ないので、病院から警察に連絡がいっていなかったという可能性はある。
でも、静一がしげるを突き落として、勢いよく転落していったあの様子を思い出すと、そんな無理矢理捻りだしたような希望的観測は消し飛んでしまう……。
幼い頃の静一は静子に落とされても生きていた。
しかしそれは幼児の体重の軽さがあってのことだろう。
幼児は高所から落ちても、少なくとも大人より生還できる確率が高い。
しかししげるは成長期にある体格だった。ましてや無防備な状態で落とされて、空中で完全にコントロールを失っていた。落ちていく際の表情を見ると、自分がどんな目に合っているのかもわかっていなかったかもしれない。
それに静子に崖から落とされた時の後遺症である身体の障害も残っている。
そんなしげるがあの状況下で、生き残るために一体何が出来るだろう……。
おそらく、しげるは亡くなってしまった。そうとしか考えられない。
そうなると。静一の罪状は殺人となる。
殺人未遂の静子よりも重い罪を背負ってしまった。
人生が完全にメチャクチャだ……。何でこうなってしまったのか。
しかし静一は全く取り乱さない。
まだ状況が飲み込めていないというよりは、この状況に納得してしまっているように見える。
ラストのページの、
(ママ ちゃんと言えたよ 僕)
は、もうあまりにも静一が哀れで見ていられない。
読んでいて、自然と眉根がぐぐぐっと寄ってしまった。
静一の表情が満足そうなのがまた辛い……。
静子が捕まり、静一は物理的には彼女から完全に解放された。
一時はその解放感を噛み締めていた。
それにも関わらず最終的には静子に囚われてしまった静一を、一体誰が救えるだろうか。
そもそも静一は救われたいと思っていないから、もうどうしようもない。
彼の人生はこれからどうなるのだろう。
おそらく静一はこれから時間をかけて自分を見つめ直していくのだろう。
しげるを殺めてしまった事の重大さを理解し、心の底から悔やむことができるとしたら、まずはその過程を経なくては難しいのではないか。
静子の影響はあまりにも絶大だった。1巻から終始、静一は静子から逃れられなかった。
これはつまり、親が及ぼす影響から子は決して自由になれないことを伝えたいのかなと思った。
次回は、しげるが今どのような状態かがわかる。
それを受けて、果たして静一はどう反応するのか。
以上、血の轍第94話のネタバレを含む感想と考察でした。
第95話に続きます。
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