第53話 やくそく
第52話のおさらい
病院からの帰り、一郎からの提案で久々の外食にうどん屋に寄ることになった長部一家。
座敷席に座ると、一郎はワクワクした様子で静一に、何を食べるか問いかける。
静一は一郎とは逆に、ぼうっとした様子だった。
うどん、と答えた静一に、一郎は続けて、冷たいうどんなのか、天ぷらも追加するのか、とそのテンションは高い。
一郎に勧められるままにメニューを決定する静一。
続けて静子にメニューを聞く一郎。
静子は、なんでもいい、と疲れたような表情でぽつりと答える。
ママも天ざるうどんでいいかい? と一郎は静一に向けていたのと同様、楽しそうな笑顔を崩さない。
静子は一郎の質問に、そんなには食べらんないと答えるが、一郎はさらにてんぷらを勧めようとする。
それに対し、いいってば! と少し語気を強めて拒否する静子。
そんな静子の反応を意に介する様子もなく、一郎は、自分の注文も決めて店員を呼ぶのだった。
注文した品が揃い、一堂は黙々と食事を始める。
一郎と静一が食べているのに、静子の箸は進んでいない。
それどころか、静子は深いため息を一つつく。
それを機にした一郎が、どうしたのか、自分が何かしたかと問いかける。
静子は少し間をおいて答える。
「あなたは、何にもしてない。」
しげるが目を覚まして良かったのに、何か引っかかっているなら言ってくれ、と一郎。
静子はしげるが自分たちの存在すら覚えていないことの何が良かったのか、と一郎に問い返す。
一郎は静子に、意識を取り戻したんだから、段々思い出してくれる、と前向きな言葉を返す。
「本当に?」
しかし静子の口調が強さを増していく。
「本当に思い出すん? 適当なこと言わないでよ!」
静子の表情には、まるで一郎に対して呆れたと言わんばかりの薄い笑みが貼り付いていた。
「適当に…ヘラヘラして…何にもわかってないくせに…!」
一郎は静子のヘラヘラという自分に対する言い様にイラついていた。
しかしすぐにそれは鳴りを潜める。
「オレは…本当に良かったって思って…」
一郎は、しげるを救えなかった静子が気に病んでいたのではないか、でも意識を取り戻したことが嬉しいのではないか、と問いかける。
一瞬、いらっしゃいませー、という店員の挨拶が聞こえるくらいの沈黙が支配する。
ハハッ、と沈黙を破ったのは静子だった。
「…しげ……ちゃんが……思い出してくれないんだったら……わたし…わた……し………」
「私……どうやったら出ていけるん?」
「やっと……出ていけるって……思ったのに…」
一郎には静子の言葉の意味が全くわからなかった。
なぜ、しげるが自分たちのことを思い出したら出て行くのか、と問いかける。
「わかんない…ぜんぶ…こわれてほしい…」
静子は窓の外に視線を投げて、小さな声でうわごとのように呟くのだった。
静子の言葉が全く理解できず、一郎は頭を抱えるばかりだった。
「……はあ……?」
相変わらず窓の外を見続ける静子の横顔を、隣の静一がじっと見つめていた。
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第53話 やくそく
夢
猫の死骸を前に、どうして死んでいるのかと幼い静一が静子に問いかける。
場面は一気に、山登りをしたあの夏の日に移る。
あの崖の近くにはしげるが横になっているベッドが置かれ、その上に静子が腰を掛けていた。
ベッドの周りでは無数の蝶が飛んでいる。
しげるを見下ろしながら微笑む静子の頭や肩、そしてベッドには無数の蝶が止まっていた。
静一はそんな光景を少し離れた場所から見ている。
やがて静子は静一の方を向く。
ベッドの先にある崖の淵には、左にはしげるを突き落とす静子、右には落ちていくしげるを救えなかった静子の姿が同時にストップモーションで存在していた。
今度はベッドで横になったままのしげるの顔が静一の方を向いていた。
確かな意思を感じられる視線が静一に向けられる。
(ママ…どっち…? どっちが…ほんとなの…?)
ベッドの上からはしげるが、ベッドの前では静子がそれぞれ黙ったまま静一をじっと見つめる。
(ママは…本当は…どうしたいの…?)
ゆっくりと人差し指を立てた右手を静一に向ける静子。
その指を指した先には全裸の静一が草を裸足で踏みしめて立っていた。その股間を、白いものがベットリと覆っている。
(あっ ああ みないで ママ)
股間を両手で覆う静一。
(やめて みないで)
(静ちゃん ママはね…)
静子が真剣な表情で口を開く。
(本当はね……)
挨拶
はっとした表情で、ベッドで目を覚ます静一。
その顔は汗で覆われている。
ゆっくりと起き上がり、階下の居間へと歩いていく。
居間ではワイシャツネクタイ姿の一郎が朝食のトーストを食べていた。
静一を見るなり笑顔で、おはよう、と挨拶をすると、続けて質問をする。
「朝はんなんにする? 静一もトーストでいいかい?」
「…え?」
ママは? と問いかける静一に、一郎は静子は具合が悪くて寝ているのでパパがやるのだと答えて笑顔を作る。
「学校の準備できてるんかい? 何か持ってくもんあるん?」
食事を済ませて、ジャージに着替え、学校に行く準備が出来た静一は登校する前に静子に一言声をかけようと一郎と静子の部屋の前に来ていた。
意を決し、ママ? と扉の前で声をかける。
返事がないのでもう一度、開けていい? と聞いてからそっと扉を開ける。
手前には一郎が寝ていた布団がある。
静子は窓際の布団の中で、静一に背中を向けた状態で横になっていた。
「ママ…大丈夫?」
しかし静子からの反応は全くない。
「…あ…行ってきます…」
遠慮がちに声をかける静一。
「静ちゃん。」
扉を閉めようとした時、静一は静子からをかけられる。
「ママとしたやくそく。おぼえてる?」
布団からは足の裏が見ている。
静一は静子の言葉であの夜の”やくそく”を思い出していた。
(もう…吹石には近寄らない。僕が…いやだから。)
「…………はい。」
「いってらっしゃい。」
手紙
学校に着いた静一は、教室へ向かう廊下を歩いていた。
猫背気味な姿勢に加え、その表情は無気力だった。
教室にはすでにほとんどのクラスメートが揃っていた。
皆、友達と楽しそうに会話をしている。
小倉、酒井、比留間の三人も楽しそうにふざけ合っている。
静一は一人、静かに着席しようとしていた。
ふと窓際の吹石の席に視線をやると、すでに学校に来ていた吹石もちょうど静一の方に一瞬振り返る。
しかしすぐに吹石が正面に向き直るのを見て、静一は何かの終わりを悟ったような表情を浮かべる。
席に着こうと椅子を引いた時、静一は机の中に何やら見慣れない紙を発見する。
紙を手に取ると、そこには字が書かれている。
長部へ
吹石からの手紙であることに気づき、目を見開く静一。
感想
悩む静一
冒頭の静一の夢の内容から、静一がどれだけ静子との関係で悩んでいるのかが伝わってくる。
それは静子から逃げたい、距離をおきたいというわけではなく、自分がどうしたらいいのか、そして静子の本心を知りたいという想いからの悩みだ。
前者も決して簡単ではないけど、少なくとも後者よりは現実的な解決が可能なのではないか。
母と一緒に住むのは嫌だと言って、祖父母の家に避難するとか。
静子に限らず、他人の本心を探り当てるというのは無理だ。人の心の深淵はものすごく深い。
実は本人ですらはっきりとは自分の本心を把握していなかったりする。
しかし静一はそんな母の本心を、母がどうしたいかを知りたい。
冒頭の夢は、何を考えているのかわからない、得体の知れない、しげるを突き落とした犯罪者の母であったとしても、それでも求めてやまない子の悲しい性の表れという側面もあるのかなと感じた。
こんなすぐには解決しようのない問題に起因するストレスに苛まれ続ければ、またヒドイ吃音がぶり返してもおかしくないし、それに加えてさらに何か良くない変化が体に表れるかもしれない。
既に静一の記憶は静子により変化を加えられている。
静一の中ではもう完全に静子がしげるをつき落としたか、バランスを崩して崖下へ落ちていくしげるを助けられなかったか分からなくなっているようだ。
あの夜の静子とのやりとりにより、静一の記憶は歪められてしまった。
突き落とした記憶も、助けられなかった記憶も併存しているのは静一にとって果たして幸いなのかな……。
いっそのこと完全に、静子がしげるを救えなかったという認識一色になってしまえば、静一の悩みも相当軽くなるだろう。
まだ静一の中に静子がしげるを突き落とした記憶があるのは、静一がギリギリのところで踏み止まっているということなのかもしれない。
それは、被害者のしげるや伯母夫婦への罪悪感から?
真実を知っている人間にとってそれを隠さねばならないのもまた苦痛だろう。
ただ、真実を白日の下に晒すということは、母を牢獄に閉じ込めて、今の生活を破壊するということでもある。
静一にはそれが出来ない。
静一が吃音になった原因は、母を守るには、母の犯行を黙っていなければならないという葛藤から生じるストレスにあると思う。
静子が好きで仕方ない静一にとっては、ストレスを抱え続けてでも母が捕まらない現実を守ることを選択している。つまり母が捕まること、そして自分が母を守れないことに最も抵抗があると思われる。
静一と吹石の関係はどうなる?
手紙の内容、すごく気になる!
久しぶりの吹石。やっぱかわいい。
そして静一の方を振り向いた表情から、強い子だなー、と感じた。
あの夜、静一は積極的に自分を求めてくる吹石に応えなかった。
普通はあんなヒドイ仕打ちを受けたら恨みがましい視線を投げかけそうなもんだけど、吹石の目からは全くそういう気配を発していない。
むしろ何か、強い意志を秘めているように感じる。
それは、二人の関係をこのまま消滅させたりはしない、という決意だと思う。
静一は思春期真っ最中の繊細な女の子に恥をかかせてしまったわけだが、吹石がそれに幻滅して完全に静一を見限っていたならわざわざ手紙を机に入れたりはしないだろう。
まだ二人の関係を続けていきたいという意思を静一に伝えようとしているのではないか。
個人的には、あの夜で二人の関係が完全に終わったとは思わなかったけど……。
少なくとも吹石は簡単に諦めたりはしないだろうな、と。
吹石の静一に対する想いは非常に強い。
夏休み明け、吃音に苦しむ静一の異変に同級生の中で唯一気付き、さらにそれが静子によるものではないかとほとんど直観的に看破した。
これは普段からよほど静一のことを想い、そして彼のことをよく見ていないと出来ない芸当だと思う。
そんな好きで好きでたまらない静一と両想いになれたことで、吹石は天にも昇る気持ちだった。
そう簡単に静一を手放せるはずがない。
おそらく、これから吹石からの静一への攻勢が開始されることになるだろう。
しかし静一には母と交わした”やくそく”がある。
これからしばらくは”やくそく”の遵守のため、吹石を避ける展開になっていくと予想できる。
そもそも静一も、あの夜、吹石を拒否して雨の中放置して一人逃げるように去ってしまった一件で二人の関係に致命的な亀裂が生じたと認識していたのではないか。
だから実は静一はそこまで吹石を避けることに抵抗はないんじゃないかと思う。
ただ彼女にぐいぐい迫って来られたら拒否出来る強さがあるかといえばそれは疑問だ。
吹石は静一の心変わりを自分への嫌悪からと素直に受け取るようなことはしない。
夏休み明けに静一の吃音を静子のせいではないかと見抜いたのと同じで、今回の静一の冷たい態度も静子に何か言われたからなのかと疑える勘の鋭さを発揮するんじゃないか。
静一も別に彼女のことを決定的に嫌いになっていたわけではない。
だから静一の対応は吹石の攻勢が続くほどブレブレなものになっていきそうな気がする。
当初は拒否していても、諦めずに何度も迫ってくる吹石に根負けして静子とした”やくそく”をバラすなんてことも十分考えられる。
そうして静一と吹石がまた接近していくのを静子が気付いたなら、大変なことになりそうだ。
今度、静子VS吹石の女の戦いが勃発したなら、下手すると血が流れてもおかしくない。
静子が床に伏しているのは嵐の前の静けさなのか。
とりあえず次号、手紙の内容に期待。
以上、血の轍 第53話のネタバレを含む感想と考察でした。
第54話に続きます。
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