第79話 自覚
目次
第78話のおさらい
高台から静子に放り投げられた静一は、遠くなっていく静子が笑みを浮かべているのを目撃していた。
間もなく強烈な衝撃が幼い静一の体を襲う。
うめき声を上げながら転がり落ちた静一は、うつ伏せのまま全身に走る鈍い痛みに苦しんでいた。
やがて、呻いている静一の前に静子が現れる。
静子はきょとんとした表情で、傷だらけの我が子を見下ろすのみ。
そしてすぐに興味を失ったように静一から視線を外し、もういいや、かえるんべと呟くのだった。
助け起こすことさえせず、ほら立てる? と冷たく言い放つ。
静一はうつ伏せに倒れたまま、静子を見上げて固まっていた。
高台からの帰り道、力なく俯いた静一は、静子と手を繋ぐことで何とか歩いていた。
頭から額にかけて流れ出た血はそのままに、静一は母に手を引かれ、ひょこひょことぎこちなく歩く。
みてごらん、と前方を指さす静子。
それは道に力なく横たわった猫だった。
静一は猫の死体を見た後、静子の様子を窺う。
静子が笑みを浮かべていることに気付いた静一は、ほんとだ、と嬉しそうに反応するのだった。
ひょこひょことに猫の死体に近づく静一。
かわいいね、とはしゃいだ様子を見せながら猫の死体の傍にしゃがむと、さわってもいい? と笑顔で問いかける。
静子の許可を得て、猫に触れた静一は猫が冷たいことに気付き、それを静子に問う。
猫の死体には何匹もの蝿が止まっていた。
静子は、猫の死体に触れながら、しんじゃってる、と答える。
どうして死んでいるのかと問う静一。
続けて、どうして、と何度も繰り返す。
静子は答えず、微笑するのみで一向に答えようとしない。
中学生の静一は、立ってその光景を見下ろしていた。
(そうだ…)
静子に手を引かれて、幼い静一が歩き始める。
(この猫は、僕だ。)
静子とかつての自分の背中を見送る静一。
(殺されて置き去りにされた、僕だ。)
実況見分中の静一は、静子役の婦警がしげる役の警察官を突き落とす光景を見ながら、記憶を思い出していたのだった。
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第79話 自覚
動機
静一は静子が決して自分のことを好きではなく、ただ単に静子のことを憐れむ人形、あるいは他のゴミと同じでしかなかったと悟っていた。
そして静一は、自分は静子のことが世界で一番嫌いだと自覚するのだった。
1月3日。
呼び鈴で目を覚ます静一。
訪ねてきたのは、静子の今後について報告にやって来た弁護士だった。
弁護士から、静子の精神鑑定が決定したことを聞いた一郎は、静子が精神的におかしいということなのかと問いかける。
それに対し弁護士は、明確な証拠がないため、静子の犯行の裏付け捜査に必要な時間稼ぎが目的だと即答する。
精神鑑定に送られれば、検察に送致されてからの20日の拘留期間を消費せずに済むことを一郎に説明する弁護士。
静一はそのやりとりを部屋のすぐ外で立ち聞きしていた。
そして弁護士は、それに加えて動機の解明だと話を続ける。
静子は犯行は認めていた。しかし動機は理解できないという弁護士は、静子が自分に証言したことを話し始める。
「あのとき、………しげる君を突き落としたときのことですが、『しげる君の顔が、静一君に見えた』と。」
「『これは静一なんだ。』」
「『だから、落としたんです。』」
この意味が分かるかと弁護士に問われても、全く心当たりがない一郎は、いえ、と短く返すだけだった。
弁護士は取り調べに対しても同じように供述しており、静子曰く「それしか言いようがない」と言っていたのだという。
今後はわからないと報告を続ける弁護士の言葉を背中で聞きながら、静一は自室に戻っていく。
部屋に入り、扉を閉めても階下からの話し声が聞こえている。
静一は呆然と立っていたが、やがて、ふふふ、と笑い始める。
「はははっ。」
好奇の視線
1月7日。
出勤前の一郎は静一に、先生にきちんと事情を話してあること、早退しても大丈夫であることを告げる。
しかし静一は一郎の方に顔を向けることなく、黙ってテーブルをじっと見つめている。
静一、と呼びかけても全くの無反応だった。
「静一。な。」
静一からの反応はない。俯く一郎。
登校した静一は、ざわついていた教室に入っていく。
その瞬間、一斉にクラスメートの視線が静一に集中する。
「あ…来たぞ!」
「うわっ」
「おっ」
「おい 後ろ見てみ?」
「長部 長部!」
感想
打ちのめされ続ける静一の心
静子の自分に対するひどい振る舞いを思い出し、自分が静子を憐れむ人形であり、その他大勢のゴミと同じでしかなかったと理解した静一は、静子のことが世界一嫌いだと自覚するようになった。
これは、以前のほぼ洗脳状態で静子を求めていた、歪んだ関係性が日常化していた頃よりは大分マシになったとでも言えばいいのだろうか。
しかし静一のその後の反応を見ると、世界一嫌いだと自覚するということは、逆にそれほどまでに以前は静子のことを好きだと思っていたことの裏返しでもあるのではないか。
好きの反対は無関心だという。実際嫌いというのは相手に関心があるということでもある。
自分が誰かのことを嫌いであるとはっきりと自覚する時というのは、そこに複雑な想いもあるだろうけど、全くの他人であれば清々するという側面も大きいように思う。
しかしその対象が母である静一からは、そんなポジティブさは一切見られない。
洗脳は解けたようだが、精神的に参っている現状は以前とそこまで変わらないというのは見ていて辛い……。
それまで、警察に嘘をついたり、彼女になったかも知れなかった女の子を裏切ってまで守ろうとした実の母が、自分の事を嫌いだった。
前回思い出した、幼少期の自分に対するあまりに非道な虐待の記憶が、その揺るがぬ裏付けとなっているわけだ。
静子は自分の事を好きではなかった。
自分は静子にとって道具でしかなったという気付きは静一の心に計り知れないダメージを与えている。
執行猶予があり得るのか?
弁護士が一郎に報告していた衝撃的な動機の内容を立ち聞きした静一の反応があまりにも痛々しい。
精神鑑定は、ここまで読んできた読者であれば納得だ。これを機に静子の心の闇に迫れれば良いとすら思う。
そして弁護士は、精神鑑定をするのは、警察が裏付け捜査や動機の解明に手間取っており、拘留期間を消費せずに捜査の時間稼ぎをするためだと一郎に報告していた。
そこには自分たちにとっては決して悪くない傾向にあるという意味が含まれているように感じる。依頼者の家族を勇気づけるという、弁護士の仕事の一環なのかもしれないけど、さすがにあまりにも実情からかけ離れた報告は行わないはずだ。
静子自身犯行は認めているし、無罪では済まないだろう。しかしこのまま裏付けや動機の解明が進まないだけではなく、精神鑑定の結果異常であると認められた場合、ひょっとして大した刑罰も受けずに出所することになるのだろうか?
ひょっとしたら執行猶予がついて、刑務所に入らずに済むのかな……。
そうなったら静子は早々に長部家に戻ることになる。いや、静子自身もううんざりみたいなことを言っていたし、実家に帰るのか……?
これまで謎だった、静子の実家との関係性がわかるようになるか?
何にせよ静一にとっては、また心がかき乱される事は間違いない。
しばらく刑務所に入っていてもらって、静子と物理的に会えない状況こそが今の静一に必要なんじゃないかな。
静一が、幼い頃に静子に高台から投げ落とされたことを警察に証言したらどうなるのだろう。
荒廃したままの部屋から読み取れるもの
静子がいなくなって、一郎と静一の二人きりとなった長部家。
弁護士が訊ねてくることは事前に知らされていたはず。
しかし居間はおろか、家の中の至るところは汚いままだ。
確かに静子が捕まる前から家は荒れていた。
でも夏の犯行前までは綺麗だったんだよ……。
つまり静子がきちんと掃除をしていた。家の衛生環境はおそらくは静子一人の仕事によって保たれていた。
夏の犯行後、おかしくなった静子は、一郎を追い出した秋頃から掃除をしなくなった。
人が訊ねてくる玄関から見える廊下に扇風機を出しっぱなし。荒れ放題と言って良いと思う。
でも、そんな中でも一郎と静一は普通に生活しているんだよな……。
静子がやらないなら自分たちがやろうと思わないのだろうか……とずっと疑問に思っていた。
特に一郎が率先して掃除をしたらいいのに……。
静子は専業主婦の静子に家のことは任せていたのだろうけど、静子がいない今は他の誰かがやらないといけない。
今の一郎に、その余裕がないということの表れでもあるのか。
家の掃除は静子が一手に担っていたとすれば、この夏から荒れ放題の家の様子は、静子の精神状態をそのまま表していると言っても良いのではないか。
そして静子がいなくなっても、一向に掃除をしようとしない一郎と静一。
静子の精神が不安定な大元の理由はもっと他にあるけど、荒れたままの家の様子からは「なぜ自分だけが?」という、静子の荒廃した心の一端が垣間見えるように思った。
一郎が静一を伴って、たまに率先して掃除すれば、少しは静子の心境も違ってきたのかな……。
静一の厳しい現実
静一の憔悴した様子から、母と精神的に決別できているとはとても言えないと思う。
そんないっぱいいっぱいの状況にある静一に、さらに厳しい現実が襲い掛かろうとしている。
年明け、登校した静一に向けられたのはクラスメートたちの好奇の視線だった。
つまり、長部家にトラブルがあったことが広まっているということがわかる。
その詳細までは出回っていなくても、静一の母が何か大変なことをやって警察に取り調べを受ける立場になった程度は知られているだろう。
静一はただただ静子に人生を狂わされているだけなんけど、事情を知らない他人から見たら格好のネタでしかない。ましてや中学生なんだから大人な振る舞いなど望むべくもない。
静一がこれから行く道は、茨の道だと思う。
下手すると、不登校も致し方ないような、苛烈ないじめに見舞われてもおかしくない。
これは静子を守るために、彼女の犯行を黙っていたことに対する罰とでも解釈すべきなのか……。
夏の事件以来おかしくなってしまった静一に対しても変わらぬ態度で接してくれた唯一の見方であった吹石は、母と天秤にかけた末に自ら遠ざけてしまった。
もう彼女は助けてくれない。
孤立無援の中で、果たして静一はこの逆境をどう乗り切るのか。
以上、血の轍第79話のネタバレを含む感想と考察でした。
第80話に続きます。
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