第78話 血の轍
第77話のおさらい
しげる役の警察官と静子役の警官があの日の光景を再現をしているのを、静一は見つめていた。
刑事が静一に、それでどうなった? と訊ねる。
静一は、背後に静子の圧力を感じながらも、なるべく正確に答えようとしていた。
両手で突き落とす直前の動作をする静一。
静子役の女性警官はしげる役の警官からしげるを模した人形を抱きとめる。
その光景を前にして、静一は目を見開いて崖の渕にいる静子役を見つめていた。
「それで……それで……ママっは……ママッ…ママッ…ママッ…マッ……」
しげる人形の顔はのっぺらぼうだった。
しかし静一の目には、その頭部に人の表情が見え始めていた。
ぼんやりとしていたそれが、やがてはっきりと浮かび上がる。
それは幼い頃の自分の顔だった。
高台で、静子に抱っこされながら笑顔で向き合っている記憶を思い出す。
静一の脳裏には、幼少期の記憶が鮮明に甦っていた。
静子に、いいところに連れていくと言われ、家の外に出る静一と静子。
道中で幼い静一は静子を見上げて、どこに行くのかと問う。
静子は、自分がずーっと行きたかったところだと笑顔で答える。
「せいちゃんもきっとすきなところだよ」
そなんだあ! と静一は無邪気に笑うのだった。
高台に到着した静子は、景色を見下ろしていた。
やがて静子は静一の両脇に手を入れて抱き上げる。
静子の表情からは、すでに笑顔が消えていた。
「わたしもう きえることにする だからね おまえもきえるの」
ニヤリと笑う静子。
「せいちゃんがさきね」
柵の向こう側に静一を放る。
第78話 血の轍
「もういいや」
静子は高台から静一を放る。
静一は落ちながら、遠くなっていく静子が笑みを浮かべて自分を見下ろしているのを見ていた。
衝撃が静一を襲う。うめき声を上げて転がり落ちていく。
地に着いた右手が「ボキ」と嫌な音を立てる。
静一は頭から血を流し、落ち葉に顔を埋めるようにうつ伏せに倒れていた。
気を取り戻し、助けを求めるように手を伸ばそうとした静一は全身に走るズキズキという鈍い痛みに苦しむ。
泣き叫ぶことも出来ず、涙を浮かべて呻き続けていた。
「ああ…あ…ああ……」
力なく呻いている静一の耳にガサガサという音が聞こえて来る。
目を見開く静一。
目の前に立っていたのは高台から降りてきた静子だった。
静一はうつ伏せになったまま、静子を見上げる。
静子はきょとんとした表情で、傷だらけの幼い我が子に言葉もかけず、ただ見下ろしていた。
やがて興味を失ったような目で静一から視線を外して呟く。
「もういいや かえるんべ」
そして静子は相変わらず静一を助ける素振りを一切見せず、ほら立てる? と冷たく言い放つ。
「さっさとたって」
静一は倒れたまま、静子を見上げた状態で固まっていた。
帰路
高台からの帰り道を行く静一と静子。
静一は力なく俯き、静子と手を繋ぐことでやっと歩ける状態だった。
頭の出血はそのままで、静一は静子に手を引かれてひょこひょこと歩く。
「……あ」
何かを見つけた静子は、みてごらん、と前方を指さす。
「ねこさん ねてるよ」
道に猫が力なく横たわっていた。
静一は猫の死体を見た後、静子を見上げる。
静子が笑みを浮かべて自分を見てくれていることに気付き、静一は嬉しそうな声を上げる。
「………ほんとだっ!」
そして静一は、靴が片方脱げってしまった足でひょこひょことに猫の死体に近づいていく。
「……わぁ~ かわいいねえ…!」
猫の死体の傍にしゃがむ静一。
「ねえまま さわってもいい?」
静子に笑顔で問いかける。
いいわよ、と言われ静一は猫に触れる。
「猫さーん……」
手から伝わってくる感触に違和感を覚えた静一は静子に訊ねる。
「まま このこ つめたいよ?」
猫の死体には無数の蝿が止まっている。
記憶の覚醒
「ああ…ほんとうだ」
静子も猫の死体に触れながら呟く。
「しんじゃってるんさ このこ」
「どうして? どうしてしんじゃってるん?」
静一は笑みともつかない表情で、どうして? と繰り返す。
「どうして? どうして? どうして?」
静子は答えず、微笑するだけだった。
静一は猫の死体を見つめている静子と、静子を見上げている幼い自分を、立って見下ろしていた。
(そうだ…)
幼い静一に出発を促す静子。
再び静子に手を引かれ、血だらけ、傷だらけの静一が俯きながら歩き始める。
(この猫は、僕だ。)
静子と幼い頃の自分が遠ざかっていく。
(殺されて置き去りにされた、僕だ。)
静一はしげる役の警察官が静子役の婦警に突き落とされるのを見ながら、記憶を取り戻していた。
感想
どっちでも良かった?
読んだ後暫く呆然としてた……。
こんなのどう評したら良いのかわからん。
これまで、しげるを突き落とした動機は静一を守るためだったり、あるいは自分が置かれた状況から感じている閉塞感を打破するために、つい魔が差して……、といった風に推測していた。
とりあえず前者の説に関しては、静子と静一との間にこんな過去があったというなら、それはあり得ない。
むしろ、絶好のシチュエーションだったので、ここぞとばかりに突き落としたと見る方が自然に思える。
少なくとも、静一の安全のためではないだろうな……。
後者の方がまだ線としては生きていると思う。
ただもっと闇は深い感じがする。
静一が生まれた時からどうでも良かったとか言っていたし、それが本心だったと改めてわかった。
静子からしたら静一にしても、しげるにしても、死んでても良いし、生きてても良かったのだろう。
殺すことが目的だったなら、その日の内にもう一度投げ落とすなりするはず。
幼い静一を放り投げて以来、静一を再び同じ目に遭わせることがなかったのであれば、ますます静子にとって静一の、そしてしげるの生死は「どっちでも良かった」ということが言えるのではないか。
今回静一が思い出した、静一を突き落とした後で高台から降りてきた静子は極めて冷徹に我が子を観察していた。
もしかしたら、突き落とした直後はしげるの犯行直後のように一瞬でも恐慌状態に陥ったのだろうか?
でも完全に自分の意思で放り投げてたし、どうもそんな感じはしないんだよな……。魔が差した、では決してない。
しげるを突き落とした後、静子が恐慌状態になったように見えたのは、その後の演技のためにスイッチを入れるためだったとでもいうのか……。
何より、唯一の目撃者であった静一に見せるためだった?
静子がとんでもない危険人物であることは、もうかなり前から疑いようがなかったわけだが、話数を重ねて彼女が何をやってきたかを知るにつれて、その実体は逆に掴みづらくなっているように感じる。
第1話の頃は、日常にストレスを抱えつつも、息子を溺愛気味にかわいがること以外は特に普通の主婦くらいに想っていたが、果たしてその心の内にどれだけのものを抱えていたというのか。
徐々に普通の人間を装っている鎧が剥がれ落ちていった後、見えてきたのは人体ではなくドス黒い何か別の生命体だったような感じ……。
……しかし、考えてみれば人間って、多かれ少なかれ良くわからないものではある。
そもそも自分自身でさえ自分の事を正しく知らなかったりするわけで、ましてや他人の目から表面上見えている人格とは全く違った、どのような一面を持っていたとしても不思議ではない。
そんな風に「静子が良くわからない」ということも、強引に相対化できてしまうのだけど、でもやっぱり静子に関しては特別抱えている歪みがあまりにも大き過ぎるように思う。心が荒廃し切っているというか、捨て鉢になっているというか……。
静一を溺愛していたのは愛情の表れではなかったのだろうか。
そうすることこそが、これまで無縁だった愛情を理解できる方法だとでも思ったのか。……いや、そんな人間らしい欲求が果たして彼女にあったのか?
静子が求めていたのは、もう終わりにしたいという一点のみだった。
彼女には一郎はもちろん、静一すら不要だった。明言はしていないが、おそらく自分の命ですら……。
自殺しないのがよくわからない。ひょっとして、これまで出てきていない静子の両親から封じられていたのだろうか。単純に、自分で死を選ぶのは怖かったというのも十分あり得る。静子くらいの病み具合に年季が入っているということは、死を避け続けて生きてきたということだ。死にたくはないけど積極的に生きたくもない感じ? もしそんな心境で生きているのであれば、それはまさに苦行そのものであるように感じる。
何より、以前から思っていたが、一番わからないのは静子が一郎と結婚したことだな。
お見合いだったのか? そのあたりは一郎が話してくれそうな気がするけど……。
もしかしたらそれも、彼女の両親の為だったりするのか。
生きているのかどうか分からないけど、静子の両親が静子を歪めた犯人である可能性は十分あるように思う。
まさか、両親は全く普通で、ただ単に元々静子の心が腐ってただけというパターン?
一体、静子はどんな人間なのか?
少なくともその過去を遡らない限りは、永遠に掴めないことはわかった。
幼少期の記憶
自分は幼い頃の記憶をあまり覚えてない。でも怪我を負った時のことはいくつか覚えている。たとえば額の傷は窓ガラスに三輪車で突っ込んだ時に切ったものだし、脛の皮が薄くなって光沢を放って見える部分も、回転しているトラクターの車輪によって脛の皮を数ミリではあるが、こそぎ取られたからだ。
おそらくこんな風に、幼少期であっても痛みとともにその前後の記憶は、まるで写真のように心に焼き付くからではないかと思うのだが、静一の場合はどうだったのだろう。
静一が高台から落とされたのは、まだ、おそらく幼稚園の低学年か、その前くらいの時の記憶だろうし、これまで思い出せなくてもおかしくはない。
でも実況見分の現場で警察官が静子としげるを演じている様子から鮮明に思い出したのは、それ以前は自分で記憶に蓋をしていたためではないか。
その蓋とは、即ち静子への想いではないか。おそらく静一を突き落としたその後は同じことは繰り返されることはなかったはずだ。
そして溺愛され続けて、子供の本能として母親に抱いた愛情が「ママがそんなことをするはずがない」と、記憶をなかったことにした?
でも母の呪縛が解けた今、それと一緒に記憶の封も開いたということなのかなと思った。
幼少期に母と一緒に見た猫の死体のことをことあるごとに思い出していたのは、静子に落とされた記憶を引き出す道筋は既にあったということなのだろう。
静一は無意識で母との間で何かがあったことを思い出そうとしていたが、その記憶は静一の脳内に留まり、出口には至らなかった。
記憶を思い出した時の、見開きで描写された静一の表情が痛々しいというか、新しい狂気に目覚めてしまったように見えるというか……。およそ中学生らしからぬ老け様に感じる。
これ、ひょっとしたら静子も両親から似たような想いをさせられたんじゃないのか? それが今度は静一に遺伝してしまった?
幼い頃の静一も、高台からの帰り道、猫の死体を撫でている時になぜ母親からこのような仕打ちを受けなければならないのかと疑問を感じていた。
幼い子供の本能として、母親を嫌いになることなどできないから怒りや恨みをぶつけるどころか、抱くことも出来なかったものの、その時に抱いた疑問は静一の心の底に沈殿していたということか。
重大な記憶を思い出したことで、静一はどうなるのか。
そして今回も見開きで出た、第1話冒頭で静子が見せたあの微笑……。
安らぎを感じているように見えるが、果たして、今後読者は静一を通して、どこまで静子の心に迫れるのか。
以上、血の轍第78話のネタバレを含む感想と考察でした。
第79話に続きます。
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