第39話 濡れる声
第38話のおさらい
トイレの中で吹石の父の接近に気付いた静一はドアの前に立つ吹石と、父とのやりとりに耳を澄ませていた。
イラついたような口調で強引に父に部屋に戻るように要求する吹石。
父は吹石の要求に素直に従い、部屋へ戻っていく。
足音が遠ざかった後、静一は自身の股間の汚れを処理してから少しだけドアを開ける。
今のうち、と吹石は小声で静一を自室へと誘導する。
外は雨が降っていた。
静一と吹石はベッドで互いに身を寄せ合い、うっとりとしていた。
静一はさきほどトイレで処理した自分の股間から出た何かのことをぼんやりと思い出す。
吹石は突然、静一の頭に鼻を近付けると、そのにおいを嗅ぎ、ふふっと笑ってからくさいとにこやかに感想を言う。
それを受けて、静一の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
謝ろうとする静一を胸に押し付けるよう抱き締める吹石。
「好き。」
静一もまた吹石の背に両腕を回して抱き締める。
二人の呼吸音だけが部屋に響く。
体を離して吹石がもう一回キスをしようと切り出す。
しかしその直後、ピンポーンとチャイムが鳴る。
来客を気にする吹石。
少しの間の後、玄関から父が吹石を大声で呼ぶ。
「友達の…長部くんのお母さんが、聞きてえことあるって言ってっから!!」
聞こえてきた吹石の父の言葉を聞き、静一は顔を引き攣らせる。
「…きっ きっ きっ」
吹石は静一が明らかに動揺している様子を見て、すぐに表情を引き締める。
「長部、ベランダに隠れてて!」
雨の降る中、静一はリュックを背負い静かにベランダに出ていた。
玄関からは、静一がいなくなったらしいという吹石の父の声がベランダにいる静一に聞こえてくる。
なんか知ってるか? と吹石に訊ねる父。
吹石は、知らない、と短く答える。
静一はベランダから階下の玄関を覗く。そこには静子が立っている。
静子は憔悴した様子で、吹石に質問をする。
「昨日…あのあと…どうしたん? 川原で…一緒に…いたわよね…」
吹石は静子の質問に淀みなく答えていた。
「…川原でたまたま会っただけです。静一くんはひとりで帰りました。」
本当に? と確認する静子。
静一はそんな二人のやりとりをじっと見つめる。
私は知りません、と堂々と宣言する吹石。
そして吹石は静子を糾弾するかのような主張を始める。
「おばさんのせいじゃないんですか? 静一くんが帰って来ないのは。」
吹石の礼を欠いた言葉を受け、父は吹石に、静子に向けて謝罪するようにと促す。
静一はベランダの柵から身を乗り出し、そんなやりとりを聞いていた。
吹石からの痛烈な一言に、そうね、と同意する静子。
「私のせいね……」
静一は、憔悴した様子の静子が涙を流しているのを見つめるのだった。
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第39話 濡れる声
告白
雨の降る中、静子は静一の行方を求めて吹石家を訪ねていた。
「私は…ダメなんです。」
玄関に出てきた吹石父、吹石に、静子は唐突に身の上話を始める。
「どうしても…ダメなんです。」
静一は静子の様子を二階から窺っていた。
静子は、ふふ、と力なく笑って言葉を続ける。
「いい年して恥ずかしいです…」
「でも…私は違うんです。他の人達みたいにはできないんです。」
「どうしても…どうしても受け入れられない。」
静子の目から涙が流れ落ちる。
「あなたみたいな子が静ちゃんをたぶらかしてるって考えただけで…頭がおかしくなりそう。」
静子からの唐突な強い言葉を受け、え? と何が起こったのか分からない様子の吹石父。
吹石が静子のことを真っ直ぐ見つめているのを、静一は玄関ドアのすりガラス越しに見ていた。その表情は確認できない。
やがて静子は俯き、ごめんなさい、と繰り返し始める。
手を胸の前でぎこちなく何度も組み変える。
「私が悪いのに…ごめんなさい…ごめんなさい…」
「私の…せいで…いつも静ちゃんにつらい思いさせてきたかもしれません…」
静子は吹石父と吹石の前で静一の話を始める。
小さなころからわがまま一つ言わない聞き分けが良い子で、だからいとこが遊びに来る際には友達との約束があっても断らせていた。
なので休日の度にいとこと遊ぶことになり、夏休みの日記には毎日”いとこと遊んだ”という文ばかりが並んでいた。
「それを見て…私…哀しくって…情けなくって…」
俯いたまま言葉を続ける静子。
「それでも…何も言えなかった…私が悪いんです結局…」
静一は静子の告白から目が離せない。
「ごめんね…? ごめんね静ちゃん…?」
顔を両手で覆い、体を折り曲げていく。
「ママ…ママのせいで…」
「私…私は…いらない子だから…愛して…もらえなかったから…」
吹石父は玄関から外に出て静子に近寄る。
「静ちゃんには…私がもらえなかったぶんも…たくさん愛してあげたかったんです…」
顔を伏せたまま静子は続ける。
「それを…あの人達は過保護ってバカにして…私を…私のこと…誰も見てくれなかった…!」
「奥さんあの…」
静子のただならぬ様子に吹石父は困惑するのみ。
「パパだって…結局あの人達の味方…! 口だけで何もしてくれない…!」
「ママ…」
とうとう静子は玄関先で膝から崩れ落ちてしまう。
「それでも私は…静ちゃんのために…静ちゃんがいてくれたから…生きて来れたの…」
「他に生きてる理由なんて無い…」
「…でも…でも…それが…静ちゃんを苦しめてるなら…」
「私の生きてる意味は…何…?」
両手を玄関先のタイルに置き、嗚咽する静子。
「静ちゃん…静ちゃあああん」
静子は静一の名を何度も叫んでいた。
その悲痛な叫びを静一はじっと聞いている。
前日、静子は中指の爪を噛み割っていた。
そのため、地面に突き立てていた中指の爪から血が流れ出して広がっていく。
「奥さん!」
吹石父は静子のそばにしゃがみ、声をかけていた。
「あの…ちょっと…落ち着いてください!」
地面に手を突き、顔を伏せたまま、静子は少しの沈黙のあと、すみません、とだけ返す。
静子の右手中指の出血を指摘する吹石父。
静子がゆっくりと、上半身を起こしていくのを静一はじっと見つめていた。
静子が顔を上げる。
その横顔を目にした時、静一は頬を上気させ、両目から涙を流していた。
「ママ…」
雨の音が響く中、思わず静一が呟く。
感想
本心か演技か
最後の静一の表情を見ると、静子の見せた涙ながらの訴えや、その横顔の美しさに、それまで離れてしまっていた母への気持ちが再びぐっと惹きつけられてしまったということなのだろうか。
彼女がこれを計算してやっていたとしても、はたまた天然であったとしても、静一をおびき寄せるための罠であるように感じてしまった。まだ静一が吹石家にいるとは聞いていないのに、静一がどこかで見ていると確信している。
爪が剥がれてるのすら、目の前の吹石父から同情を得るためにやっている可能性が捨てきれない……。
かと言って、静子の訴えは、別に嘘を言っているわけではないと思う。
本心を言っている。
でもどこかそれを演技のための格好の道具としているのではないかと疑ってしまうのは、しげるへの犯行を見事に世間から隠し通した件があるからだ。
あれはこの漫画における最も重要な出来事の一つであり、それを除外して、あの事件以降の彼女の行動を評価してはいけないと思う。
事実あれ以降の静子の異常行動として、静一が吃音に苦しんでいても一向にそれを気にしていなかったり、今回、静一のことを大切、静一がいたから生きて来れた、と言いつつも、しげるの見舞いから帰った夜に静一の首を絞めている。
いくら生意気な事言ってもさすがに首は絞めないでしょう。世間の親は。せいぜいビンタかな。
こうした過去の常軌を逸した行動を見て来たことが、自分が素直に静子に同情を寄せることを拒んでいるのだと思う。
でも困ったことに、やはり静子は美しいんだよなぁ……。
ラストの見開きの横顔が美し過ぎる。
彼女が胸の内に異常性を抱えていることは確かなのに、そうとはとても思えない無垢な表情に魅せられてしまう。
静一は母への気持ちが甦ってしまったようだし、次号では静一と静子が対面することは間違いないだろう。
そもそもこのまま家族の目を盗んで吹石家に逗留し続けることは静一は考えていなかったと思うし……。
一日ぶりに対面して、果たして静子は静一にどんな態度で接するようになるのか。
人前ではやらないだろうけど、帰宅した時にどうなるかが怖い……。
静一が口答えしたりしなければ、また以前のような親子関係に戻りそうな気がする。
あくまで”以前のような”であり、確実に静子の静一への態度は変わっていると思う。
それが静一にとって好ましい変化なら良いんだけど、今回の静子を見てると不安に駆られる。
会えて良かったね、とはとても思えない。
静子は静一が吹石と一緒にいたことを知って、それを受け入れがたく感じている。
吹石のことを静一を誑かしてると父親の前で平気で言えてしまうメンタリティが恐ろしい。
彼女の抱える歪みはさらに大きくなっている気がする……。
静一の心を取り戻す為に吹石を……なんて展開になっていく?
二人はいつか対決すると、この物語のかなり早い段階から予感があった。
でも今回、静子が草叢の時よりも吹石への本音をよりわかりやすく吐露したことで、その動機が明確になった。
静一が今更吹石と離れられるわけがないので、静子は近々彼女を排除する方向で何らかの行動を開始すると予想する。
そこで吹石はもちろん、静一とも一悶着ある感じかな……?
混乱する
1話からずっとそれを感じながら読み続けてきたが、やはり自分の静子に対する認識は未だ定まっていないところがある。
それが特に感じられた話だった。
今回の感想は書いてて特に手が止まる……。
静子は犯罪者なんだけど、でも同情してしまう……。
たまに女性の方がコメントくれるんだけど、静子の気持ちもわからんでもないという内容なんだよね……。
その内容を見てると一方的に静子を悪者にしたくない、可哀想という罪悪感が湧いてくる。
でも同時に、前述したけど今回の静子の態度は演技じゃないのか? という疑いもまた生まれるんだよなぁ……。
彼女が言っている事全てが嘘と言うわけではない。むしろ本音しか話してないと思う。
ただ今回の静子の行動はそれを利用して同情を誘うような行動を演じ、静一を誘い出しているような……。
いやいや、やはり天然でやってるのか? うーんもう正直よくわからん……。
人の心の迷宮にはまりこんでしまったという気持ち。
女性の気持ちがわからない+心理学、精神医学などに疎い自分のような人間には、どうやら静子の心を読み解くハードルは非常に高いらしい。
しかし、世の中には静子みたいな渇望感に苦しんでいる人がいるというのは知っている。
大人になっても、親子関係の後遺症に苦しんでいる人が。
だからそういう人を傷つけかねないから軽はずみなことは書けないと思った。でもやはり後から後から静子はやっぱりちょっと違うような気がしてもやもやする……。
なんか全然うまく言葉に出来なくてもどかしい……。
もっと予想を裏切る展開であって欲しいという期待がフィルターになって、返って読み方を間違えている可能性もあるかもしれない。
そして、静子の演技云々が自分のただの深読みで、実際はもっと見たままの単純な構図である可能性だって十分ある。
押見先生は別にややこしくしようとは思って無くて、単に自分が難しくしているだけなのかも……。
コメント欄で静子について色々と感想をもらう内、わからなくなってきたんだよなー。
これまで虐げられてきた静子を、しげるを突き落とした行動だけにフォーカスして、単純に異常者扱いしてよいのかという気持ちと、いや実は天然の毒婦がついに牙を剥いたのではという想像がぶつかりあっている感じ。
世の中には静子と同じように、親戚夫婦などから攻撃を受けていると感じてストレスを溜めてる人もいるだろう。
そういう人は静子の行動に同情してもおかしくない。
静子は夫の家族から静一との関係を過保護と揶揄され、それに健気に耐え続けた。
そのストレスが溜まり切ったところに、夏の山登りの日、ふざけて静一を崖から落とし兼ねなかったしげるを、つい魔が差して突き落としてしまった。
でもしげるが入院し、その犯行を当然のように誤魔化して以降、静子の異常性が目立っていく。
その様子があまりにも衝撃的だったから、おかしいのは静子だよな、と思うようになったんだっけ。
そもそもしげるを植物状態にした時点で犯罪者だし……。
入院しているしげるの見舞いに一郎と静一が行った際に見せた伯母の殊勝な態度を思い出す。
伯母は静子に謝っていた。
あれは静子が過保護と呼ばれ、笑顔の裏で嫌がっているのに気付いていたということだという解釈ができる。
そんな伯母の静子への謝罪は、静子が被害を受けていた状況証拠と言って良いのではないだろうか?
それに静子が、自分が周囲から過保護だとバカにされていると感じているのは彼女にとっては動かし難い真実といえる。
伯母夫婦をはじめとした静子の行動を揶揄っていた周囲の人たちは、実は静子のことをそこまで攻撃していなかったつもりがなくても、本人がそう感じているならそれが真実だ。
つまりイジメやセクハラと同じ構図。
静子の犯した犯罪は許されるものではないけど、同情してしまう部分もあると思ってしまう。
愛されなかったという認識
ここまでこの物語を追ってきた読者なら、情緒不安定な静子の過去には、その原因となる何らかの問題があったと予感している人も多かったのではないだろうか。
今回の話で静子自身は、少なくとも自分が”親に愛してもらえなかった”と認識していることがはっきりした。
しかし”いらない子”とはどういうことなのだろう。
客観的事実じゃなくてもいいから、この部分に関して静子の説明が欲しいな……。
親が仕事が忙しくて構ってもらえなかった?
あるいは兄弟が多くて静子だけがちょうど構ってもらえなかった?
そんな単純なことではなく、もっと残酷で、決定的な出来事があったのか?
愛してもらえなかった。いらない子。どちらもまだその真相はわからない。
親の愛情表現不足(伝わっていない時点で無いのと同じだけど)を静子が誤解しているか、もしくは本当に静子に対して愛が無かったのかはわからない。
それは今後もわからない可能性は高いし、それが分かったところで静子が救われるわけでもない。
”親に愛されなかった”という認識が果たして本人の思い込みである可能性はまだ排除できないが、ここで大切なのは静子自身がそう強く信じていることだと思う。
親に愛してもらえた実感がなかった。だからその分、静一を愛した。
親にしてもらえなかったことを子供にはしてあげよう。そう思えるのは親として素晴らしいと思うんだけど、どうだろうか?
そしてそれを長部家から過保護だと揶揄され続けていたことに、静子はとても強いストレスを感じていたようだ。
しげるが入院する前までに描写された伯母さんに象徴される、自分と静一の関係をバカにする人たちこそが、静子が”戦っていた”相手だったのだろう……。
そして一郎は攻撃を受けている自分を身を挺して守るどころか、逆に”敵”に与していたと静子は理解していた。
夏休み、長部家を訪ねて来た吹石が帰った後に静子が一郎に見せたあの剣幕は、そうやって溜まった鬱憤が炸裂したものだった。
自分はあまりリアルでそういう話を聞いたことがない。
よって本とかフィクションから学んだ程度の知識しかないが、こういう気持ちの人って割と身近にいるんだろうな、となんとなく思っていた。
で、親御さんとの関係が上手くいかず、その歪な親子関係の認識そのままに子供と接してしまい、その歪みが子供に伝播するという悲劇……。
肉体的な虐待を受けていて、それをそのまま子供に行うようなケースがあると聞いたことがある。
静子の行動はしげるへのそれを別にすれば、まだマシだったのかとも思える。まぁ、しげるの件で一発アウトなんだけど……。
そういえば過去に「毒になる親」って本を読んでいたのを思い出した。
読んでて、割と該当する親が多くね? と思った記憶がある。
読み直そうかな。その中に答えらしきものが見つけられるかも。
そして、この物語から目が離せないのは親との関係性が多かれ少なかれ歪んでいたと感じていた人なんじゃないか。
親子関係の歪みの、なんというか、その根底にあるものを静子が生々しく読者の前に提示していたから引き付けられている?
サイコだからという理由だけではなく、実は彼女の気持ちがわかるというのもこの物語から目が離せない理由としてあるのかもしれない。
以上、血の轍第39話のネタバレを含む感想と考察でした。
第40話に続きます。
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