第51話 親族
目次
第50話のおさらい
朝。
静子が静一の部屋に躊躇いなく入って静一を優しく起こす。
しげるの元に9時すぎに行くことを伝えると、静子は続けていつもの質問をする。
「朝はん。肉まんとあんまんどっちがいいん?」
静一はそれまで壁に向いて横臥していた。
しかし静子からの質問を受けて、静子に顔を向ける。
「どっちでもいい。」
静子は笑みを浮かべたまま静一を見つめる。
「……じゃあ、あんまんでいい?」
「うん。」
静一たちは車で病院に向かっていた。
その道中、一郎は静子に姉夫婦が何も気にしてないこと、静子が来たら嬉しいと言っていたことを伝えて、静子の不安を取り除こうとしていた。
一郎の言葉に静子が答える。
「私もうれしい。やっと…行げて。」
しげるの病室の前にやってきた3人。
カーテンで覆われている右奥のしげるのベッドに向かう途中、静一はちらと隣を歩く静子の表情を窺う。
静子は穏やかな笑みを浮かべていた。
それを見て、静一も同じように笑う。
3人でカーテンの前に立ち、一郎が伯母に声をかける。
伯母の、どうぞ、という返事で一郎がカーテンを開けると、しげるはベッドの上に仰向けになって目を薄く開けていた。
以前の目の焦点が全く定まっていなかった頃と明らかに違うその様子を、静一は嬉しそうな表情で見つめる。
伯母は三人がしげるの意識が戻ったことを喜んでくれている様子を満足そうに見つめたあと、しげるの方を向いて呼びかける。
「しげる! 静ちゃんたち来てくれたん! わかる?」
しげるの視線が見舞いに来た三人を捉える。
するとその目がわずかに大きく開く。
しげるの表情に明らかな変化が起こったのにまず反応したのは静一だった。
さきほどと同じく、静子の表情をそっとチラ見する。
「…しげちゃん。」
静子は温かい笑顔を浮かべてしげるに声をかける。
「よかった……気がついて。」
静子の言葉に反応したように、しげるはゆっくりと目を閉じていく。
しげるの次の反応を、ただ一人を除いてその場の一同が真顔で見守っていた。
静子だけが変わらない笑顔をしげるに向けている。
「あ…」
しげるの目が左上に泳ぐ。
「ちょうちょ…」
第51話 親族
しげるの反応
「ちょうちょ…」
しげるの呟きに、一同の注目が集まる。
しげるが言葉を発したのを目の当たりにして、伯母は喜びの表情を夫に向ける。
「しゃべれた…お父さん!」
しげるは呆然と虚空に視線を彷徨わせている。
静一は右隣の静子の反応を伺うようにチラ見する。
静一の目には、静子は頬を紅潮させ、しげるの回復を心の底から喜んでいるように見えていた。
一郎はしげるが発したちょうちょという言葉がどうしたのか? とその発言を深く掘ろうとする。
しかししげるはぼうっとするばかりだった。
口をぽかんと開けたまま、一郎の質問には答えない。
静子はしげるのベッド、その足元に両手を置き、体重をかけながら、しげちゃん、と呼びかける。
静一はその様子をじっと見つめていた。
「わかる?」
静子は笑顔でしげるを正面から見据えつつ、明るく呼びかける。
「静子おばさんよ。」
「しげちゃん。わかる?」
しげるは静子をじっと見返す。
そのしげるの表情を、静一は静子の背後から見つめていた。
目を細めていくしげる。
静子が静一に振り向いて呼びかける。
「静ちゃん。言ってあげて。静一だよって。」
その表情には笑みが浮かんでいる。
そのやりとりを伯母とその夫がじっと見つめている。
静一の顔が笑顔になっていく。
「しげちゃん…静一だよ…」
そこに吃音など一切ない。
静一の表情はごく自然で、言葉もまた同じだった。
しげるに話しかける静子
ぼうっと静一を見据えてその言葉を聞いていたしげるは、ようやく一言返す。
「だれ…?」
その場にいたしげる以外の誰もが、しげるの言葉を心待ちにしていたため、驚きのあまり一瞬その場の時間が止まる。
「……しげる? 静ちゃん…だよ? ほら。」
伯母が優しくしげるに呼びかける。
しかししげるは、まるで拒否を示すように左右に首を振る。
「しげちゃん。」
静子が若干しげるの方に身を乗り出すようにして呼びかける。
「ほら。過保護の静子おばさんだよ。」
「静子! やめろって!」
一郎は、静子がしげるに向けて前のめりになっているのを手で遮るように止める。
「まだしげちゃん…目ぇ覚めたばっかりなんだで!?」
静子は一郎の方に視線を向けることなく、じっとしげるを観察していた。
静子と一郎のやりとりを静一のみならず、伯母やその夫も黙って見つめていた。
ゆっくりとベッドから手を話す静子を、横目で眺める静一。
「………ごめんなさい…」
静子はあくまでしげるの顔から目を離さず、一郎に謝罪する。
しげるは目を閉じていた。
しげるの様子を見て、伯母は全員を外に出るように促す。
外に出た一同は、ロビーで椅子に座り車座になって会話していた。
一郎がしげるの驚異的な回復に安堵した様子を見せる。
母さんがつきっきりで、話しかけたり触ったり、口にアイスを含ませたりなど、甲斐甲斐しく世話をしたからだと答えるしげるの父。
しかし、しげるが頑張ったんだと夫の言葉を伯母が訂正する。
あの、と伯母夫婦のやりとりをじっと聞いていた静子が切り出す。
静子はお見舞いに来なかったことを伯母夫婦に謝罪するのだった。
その横顔を静一が横目で見つめている。
伯母は静子の腕に手を置く。
「そんなに思いつめないで。静子さんのこと…悪くなんて思ってないから。」
静子は俯き加減になったまま、しげるが元通りになって自分や静一のことを思い出してくれますよね、と伯母に問いかける。
じっと静子を見つめる伯母。
「私…待ってますから。それまでずっと…。」
「私にできることがあれば言ってください。何でもしますから。」
見つめ合う静子と伯母。
伯母は、ありがとう、と静子に感謝を述べる。
目が細める静子。
感想
失われた記憶
しげるは静一のことを覚えていなかった。
おそらく静子のことも、まだわからないが、この分だと母や父のことも記憶が曖昧ではないかと思われる。
これが一時的なものなのか、それとも完全に記憶が失われていて、これからまた家族や親族との関係を再構築していかなくてはならないものなのかどうかはわからない。
しげるが自分をこんな目に合わせた静子を見ても何の拒絶反応も起こさなかったことから、少なくとも静子の犯行が明るみに出ることはしばらくなさそうだ。
しげるの様子を見る限り、静子への恐怖のあまり、記憶喪失を演じているというわけでもないと思う。
まだ意識を取り戻したばかりでぼうっとした状態なのか。
どうやらしげるが「ちょうちょ」と発した後の伯母の反応から、しげるが意識を取り戻した後、初めて声を発したのはこれが初めてのようだ。
しげるのちょうちょ発言は決して偶然ではなく、静子の顔とあの犯行の瞬間に舞っていた蝶が記憶の底で密接に結びついていたからではないだろうか。
記憶は戻る?
そうなると、何かをきっかけに静子によって崖から突き落とされたことを思い出しても不思議ではない状況だと思う。
今後、静子が記憶を取り戻したしげるに告発される可能性は十分にあると言って良いだろう。
静子からすれば内心では戦々恐々となっていてもおかしくはないはずなのだが、今回の静子の反応は……一体どういうことなんだろう?
意識を取り戻したしげるに自分が告発されることなど全く恐れていないように見える。
彼女は日常生活が粉々に破壊されることを恐れていないのだろうか。
まるで自分がしげるを突き落としたことなどなかったかのように、一人の親族としてしげるの意識回復を喜んで見せた、
伯母との関係も良好になったように見える。静子はあれだけ嫌っていたのに……。
「思い出して。ほら。過保護の静子おばさんよ。」
このセリフ自体、過保護をからかったしげるのことを深く根に持って、若干煽っている感じがするし、その際の表情もまたちょっと異様だ。
でも、今回の話に出てきた静子のそれ以外のシーンでは、彼女は優しい、そして美しい親戚のおばさんでしかないんだよなぁ……。
あまり知ったようなことは言いたくないが、女性は生まれながらにして女優、という言葉が頭に思い浮かんだ。
自分の犯罪を告発する恐れがあるしげるの意識回復を静子が喜んでいるはずがない。
そう考えると、静子の態度は演技なんじゃないかなと思うわけだ。
演技か? 記憶を書き換えたのか?
ひょっとしたら静子自身、自分が突き落としたのではなく本当にしげるが自らバランスを崩して落ちてしまった、それを自分が救えなかったのだと記憶を書き換えているのかもしれない。
静一の記憶を書き換えてしまったのも、静子自身が本気で自分がしげるを救えなかったと思い込んでいるからではないのか?
今回の静子の態度は演技である説。
そして静子がしげるを助けられなかったと思い込んでいるための素の反応という説。
自分はこのどっちかではないかと思った。
どっちにせよヤバい(笑)。
前者は抜け抜けとこんな演技ができるその心根が心底恐ろしいし、後者ならどんだけ思い込みが激しいのか、もしくは心が不安定なのか。
伯母と静子とのやりとりも極めて普通だ。
だからこそ前日に静一と異常なやりとりをしていた静子の態度とのギャップが際立つ。
今回、静一が一切慌てていないのも恐ろしい。
静子のことを一切庇おうとも守ろうとしていない。
心が安定した静一
まるで静子の犯行などなかったように振舞っている。
どうやら、前夜に完全に静子により記憶を書き換えられてしまったようだ。
静子がしげるを崖から突き落としたという記憶が、静子が崖から落ちそうになっていたしげるを救うことができなかったという記憶へと完璧に改竄されている。
そうなると静一は静子を守ろうと十字架を背負う必要がなくなる。
静一は静子がしげるを突き落としたあの日、不安定になった静子のことを必死に守ろうとしていた。
むき出しの心は大きなストレスを受け、その顔もまた悲鳴を上げるかのようにゆがんでした。
母はいけないことをした。でも母を犯罪者にはできないし、したくない。母を守らなくては。
これは息子として非常に素朴で、尊い感情だと思う。もちろんしげるを突き落とした犯罪者を庇うという点は非常に良くないのだが、それを別にしたら窮地に陥った母親を救おうと自然に思えるのは良いことだと思う。
しかし、今回の静一にはそんな悲壮な感情は一切なく、そこには安定感だけがあった。
「しげちゃん… 静一だよ。」
今回静一が発した言葉はこれだけだが、そこに吃りは一切見られなかった。
あくまで自然な表情、発声になっていることがわかる。
心のつかえが完全に取れたような、実に晴れやかな表情だ。
これは一見良いことに思えるが、前日に完全に静子に忠誠を誓ったことによる効果であろうことは想像に難くない。
どうやら静一は静子との歪んだ母子関係の中で安定してしまったようだ。
こうなるとそこから抜け出すことはいよいよ困難になるんじゃないかな……。
つまり、静一は前夜の”儀式”以降、静子という毒親の深みにハマったのではないか?
静子を何度もチラ見する静一の様子は、まさに彼の静子への依存がグッと強まったことを意味している。
静一は吹石との関係を重ねていきながら、次第に静子と戦ってく姿勢を見せるようになっていた。
これはある意味健全な思春期における成長過程とも言えたと思う。
でもその路線は完全に消えてしまった。
この分だと、マジで吹石を避けるようになると思う。
悲しむ吹石を見たくないなぁ……。これで吹石が別のクラスメイトと付き合ったら気分悪いわー。
押見先生の作品はそういうの平気でやるから怖い。心がえぐれる。
吹石が静一に一切関わらなくなってしまうとなると、いよいよ静一が救われる目が潰えてしまう。
なんとか吹石にはこの難局を乗り切ってもらいたい。
あと伯母のしげるに対する献身性や、静子に素直に謝罪できる姿勢を見ると、2話で登場した時の嫌な感じはミスリードだったのか、という思いが新たになる。
伯母の穏やかな顔はこの物語が終わるまで維持されるのだろうか。
自分には、目を剥いて静子や静一に食ってかかる絵が見えてしょうがないのだが……。
果たして静子は何か狙いがあってしげるの回復を心から祈る様子を見せているのか。
静子と静一を初め、登場キャラたちの今後から目が離せない。
以上、血の轍 第51話のネタバレを含む感想と考察でした。
第52話に続きます。
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