第20話 皮膜
第19話のおさらい
夏休み明けの始業式の帰り、静一は吹石から手紙での告白の返事を求められる。
吃音を患い、会話が苦痛になっていた静一は急いで帰る為に帰り道を全力疾走して転んでしまっていたところを、何故かついて来ていた吹石に介抱される。
吹石はじっと静一の目を見て頬を染めて、告白の返事を催促する。
静一は吃音で中々出てこない声を懸命に出そうと口を大きく広げ、吹石から目を逸らす。
その様子をじっと見つめながら待つ吹石。
ようやく静一が口にしたのは、ごめん、の一言だった。
吹石は取り乱すことも無く、静かにその理由を問いかける。
静一は吃音に苦しみながらも、ママがいるから、と両眼から涙を流して答えてその場を急いで立ち去ろうとする。
吹石は、そんな静一の腕をひっしと捕まえ、ママがいるからとはどういうことなのか、と冷静に静一を問い質す。
そして、どもるのは何なのか、母にひどいことをされているのか、という吹石の問いに、静一は驚いた様子を見せてその場から逃げる。
吹石は今後は追うことなく、その場に取り残される。
急ぎ帰宅した静一が自宅の玄関のドアを開けようとすると、家の中から言い争う声が聞こえる。
ただならぬ気配を察知して、静一は玄関脇から家の裏に回る。
居間の辺りから聞こえてくる静子と一郎の口論を、窓ガラス越しにカーテンの陰に隠れて見つめる静一。
一郎は声を荒らげて静子にしげるの見舞いに行くように促している。
静子はそれを強く拒否し、叔父夫婦や義理の祖父母に会いたくないと主張し、自分は静一が生まれて以来ひとりぼっちだと天を仰ぐ。
当の静一は、それを窓ガラス越しに聞いていた。
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第20話 皮膜
静子の闇
私はずっとひとりぼっち、と虚空を見つめる静子を一郎は怪訝そうな目つきで見上げながら問いかける。
「…何だよそれ!?」
「…何で私は、ここにいるのかわからない。」
静子は淡々と呟く。
「どうしてこの家にいるん?」
静一は窓ガラス越しにじっと静子を背後から見つめる。
表情は見えない。
「これは私の家じゃない。私の家なんかどこにも無いんさ。」
静子の言葉は続く。
「消えたい。消えたいわ。」
「静一がいるから、まだいるだけ。」
「静一がいなければ、私はとっとと消えてた。」
「あなたとも別れて。とっくに。」
凍り付いた様に静子の告白を聞く静一。
「…何だよ。何だよそれ!?」
じっと静子の言葉を聞いていた一郎が口を開く。
「オレは…オレだってなあずっと働いてきて…!」
怒りと悲しみが相まって、泣きそうな表情の一郎。
「何だよそれ!!」
あ~あ、と静子は一郎の内に渦巻く感情などまるで無視するかの如く呆れたような声を出す。
「戻りたい。産まれる前に戻りたい。」
両手を軽く広げる静子。
「全部消したい。あなたも静一も。私も全部。」
「何の価値も無い。何の…」
静子はまるで一郎などそこにいないように虚空を見つめている。
静子の横顔
「もういいよ!!」
一郎が一喝する。
そして、病院に静一と二人で行く、と静子の同行を取り下げ、どたどたと居間を後にする。
静一は、居間から出ていった一郎から、後に残された静子へと視線を移す。
「…う…うう…う…」
静子は立ったまま両手で顔を覆って泣いている。
「うーっうっううーっうーっ」
その光景を、自身のワイシャツを握りしめながら見つめる静一。
「う…」
糸が切れたように静子がその場にへたりこむ。
泣き声も止まる。
両手を膝の間につき、呆然とする静子。
静一が心配そうに見つめていると、静子は両手を胸の前に上げ、まるで何かを掴んでいるような動きを見せる。
そして、それに向かってブツブツと何か話しかけ始める。
静一は、静子の奇行から目が離せない。
「…いて…」
微かに聞こえてくる静子の声。
「ゆうこときいて…」
「いいから。はやくくつはいて。」
静子は、床に寝かせた赤子に靴を履かせる真似をしている。
「いいところつれてってあげる。」
「たーのしいところ。」
「ね。ママもいっしょにいくから。」
「ね。いこ。」
静一は静子を見つめ続ける。
「ね」
「ね」
「ね」
「ね」
徐々に静子の表情が、じっと静子を見つめ続ける静一の視界に入ってくる。
「ね」
「ね」
驚愕に目を見開く静一。
そこには、歯を剥き、不自然な笑顔を貼り付けた、かつてない表情をしている静子がいた。
静一は、まるで見てはいけないものを見てしまったように、思わず後ずさりして窓から離れる。
今見た母の表情の衝撃に打ちのめされる静一。
静一は放心したような表情で、砂利を踏みしめながら玄関への道を戻る。
静一を病院へと誘う一郎
「静一。」
おかえり、と玄関の車の前で煙草を吸っている一郎が静一に声をかける。
一郎は、そっちの道から帰って来たん? と静一が裏から出てきた事について特にそれ以上追求しない。
「…なあ静一。」
煙草の煙を吐き出す一郎。
「しげちゃんのお見舞い行くか。今から。」
一郎は明るく静一をお見舞いに誘う。
静一は一瞬の間の後、え? と意外そうな声を上げる。
「今日仕事ヒマだし、午後休んじゃっていいからさ。」
一郎が続ける。
「な。途中でお昼食べて行ぐんべ。」
静一は答えようと口を開く。
そんな静一の答えをじっと待つ一郎。
「まっまっまっまっまっまっ」
「ママはいい。」
静一の言葉を先読みし、一郎が答える。
「おパパと2人で行こう。な。」
変に明るい笑顔で静一に告げる一郎。
「しげちゃん待ってるから。」
病院へ
静一が車の助手席に乗り込む
既に運転席にいる一郎がエンジンをかける。
車が自宅の敷地から道を走り始める。
静一は、空けてある助手席の窓から自宅を振り返る。
そして、静子のかつて見たことの無かった表情の、その不自然に歯を剥き出しにした口元を思い出す
静一はじっと自宅を見つめ、右手でワイシャツの胸の辺りを掴む。
感想
壊れゆく静子
静子、壊れてない?
一郎を前にしてのその呟きの内容から、これは相当に闇が深いな、と思ってしまった。
全部クリティカルな事ばっか言ってて、その場にいた一郎としては全く手の施しようがないんだろうな、というのを感じた。
謝りようも、慰めようも、励ましようも無いんだよね。
一郎にちょっと同情した。
「生まれる前に戻りたい」とか、「全部消したい」とか、「何の価値も無い」とか、あまりに絶望が深すぎて何も言葉を返せないよこれは……。
怒りのあまり、なるべく相手に対してダメージを与えるためにわざとこういう言い方をする人っていると思うけど、一郎が居間から出て行った後の静子の姿を思うとマジっぽくて怖い。
一郎が居間から出て行ったあとの静子の奇妙な行動は、幼い頃の静一を想像して一人あやすマネをしていたのだろう。
ただただその異常性ばかりが強調されるシーンだった。
悲しいとも思うけど、それ以上に異常だとしか思えなかったなぁ。
これまで当サイトで想像してきたように、一郎を始め、叔母や祖父母などに不当にここまで追い込まれていたのだとすれば同情出来る。
でもそれはここまで読んで来ての想像でしかない。
今回の静子の奇妙な行動のシーンはただただ怖かった。
でも、夫や親類に絶望している女性にとっては共感出来るのかなとも思った。
押見修造先生は女性への理解がハンパじゃない。
ただ可愛い、キレイ、だけではなく、男では通常想像も出来ないような女性のあらゆる感情を掬いとって、それを描写するのに長けている作家だと思う。
静一は静子の異常性を実感したか?
静一はしげるを突き落として以来不安定になった静子をひたすら守ろうとしていた。
しかし今回の、何かに取り憑かれたように独り言を呟く静子の姿にこれまでとは違った気持ちを抱いたのではないか。
それまで気付いていないフリをしていた静子の異常性を、まざまざと付きつけられて、実感せざるを得ないと思う。
静子が何かに取り憑かれたような表情を見て、ただ可哀想、守らなきゃ、という感情だけを持つのは難しいんじゃなかろうか。
さすがの静一でもこれには異常だと感じるだろう。というか、そう思って欲しい。
そもそも第18話で吹石から、お母さんに何かをされたのか、と問われるという前フリがある。
静一はお母さんを守っているつもりなんだけど、外から見ると静子から静一への振る舞いの数々は、虐待の一形態になってしまう。
静一はそう思っていない、というのがまた読者からすると怖いわけで、しかし今回の静一の反応を見る限りではちょっとその流れを食い止める事になるのかも、と思った。
静子が追い詰められておかしくなってしまったとすれば可哀想だ。
だけど、何の罪もない、思春期真っ盛りの静一の人生がボロボロになっていく方が見ていてキツイ。
救いようがない、というのは押見修造先生の漫画では割とある展開であり、覚悟もしてるんだけど、重いなぁ……。
以上、血の轍第20話のネタバレを含む感想と考察でした。
第21話に続きます。
あわせてよみたい
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私のお母さんもお姉がいじめにあうまでは自身のトラウマから静子と同じ行動をよくしていました。それで私は客観的に見てた側でした。だから静子は頑張って自分を生かすためになんとか正当化しようとしているように見えました。自分の中の何人もの自分を抑えたりたまにでてしまったり、多少オーバーな描き方があってもとても似ています。
だからこの感想を見てやっぱりあの時のお母さんは以上だったんだなって感じました。
いとうさん、コメントありがとうございます!
この話は読んでいて非常に鬼気迫るものがあって、衝撃的だった記憶があります。
それと同時にちょっとやりすぎなんじゃないかとも思ったのですが、いとうさんのように”自分の身近に似たケースがあった”と感じる方がいらっしゃるんですね……。
>多少オーバーな描き方があってもとても似ています
驚きました。報告頂きありがとうございます。
なぜ押見先生はこんな鬼気迫る描写ができるんだろうとちょっと怖くなりました。
”あの時のお母さんは”と書かれているので既に解決はしているということでしょうが、いとうさんのお母さんは本当に大変でしたね。
半年前に第一子の男児を出産しました。静子の気の許せる人が近くにおらずワンオペ育児をしてきたのなら、なんとなく静子の狂い方も解る気がする…と思う読者です。
初めての育児は解らないことだらけ。【過保護】の範囲がわかりません。それに【過保護】の基準も人(家庭)それぞれ。
お義姉さんを見るに一郎の実家家庭は大雑把・大胆・豪快な人たちなのかも?静子とは元々肌が合わないのかもしれません。よくある話です。
そこに来てワンオペ育児ならもう…。相当なストレスです。育児ノイローゼも考えられます。
育児ノイローゼは、なにも虐待ばかりでは無いと思うので。
何も喋れない赤子の24時間お世話ってだけでも結構精神やられます。しかし見つめてくる赤ちゃんには笑顔を見せたい…。だから貼り付けた笑顔でも赤ちゃんに向けます。ワンオペ育児でノイローゼでも、頑張って向ける人もいるでしょう…それが今回の一郎が去った後の歯を剥き出しにした静子なのかも。。
最新話まで読んでますが、周りに頼らない真面目な人が一生懸命子育てしたら静子になっちゃう可能性低く無いかも…と思います。これからの自分を思うと、思わずゾワッとしちゃいます…
毒親って、『相手の事を1番に考えてる』って思い込んでる『自分中心』さんなんかな…?気を付けようと思いますm(_ _)m
まりなさん、コメントありがとうございます!
まず、現在進行形で育児に勤しんでいらっしゃる方からの説得力あるコメントだと思いました。
読む方の立場により、各キャラの見え方や感じ方が違っていて非常に為になります。
>半年前に第一子の男児を出産しました。静子の気の許せる人が近くにおらずワンオペ育児をしてきたのなら、なんとなく静子の狂い方も解る気がする…と思う読者です。
>初めての育児は解らないことだらけ。【過保護】の範囲がわかりません。それに【過保護】の基準も人(家庭)それぞれ。
確かに、伯母さんと静子では全く感覚が違いますよね。
そして大概こういう場合、自分を前に出せる人の主張に、そうじゃない人や、あるいはその場の雰囲気が流れていくように思います。
静子は伯母さんやその親族と会う度に、常に何かしらの我慢を強いられてきた、あるいは辛いと感じてきたということは十分に言えるでしょう。
逆に伯母さんを始めとした親族はそんなことは夢にも思わず、静子とも何の問題もなく仲良くやっていると疑っていなかった。
この認識のギャップですよね。まりなさんの仰る通り、よくある話です……。
>そこに来てワンオペ育児ならもう…。相当なストレスです。育児ノイローゼも考えられます。
>育児ノイローゼは、なにも虐待ばかりでは無いと思うので。
ワンオペ育児が大変という話はよく言われますが、確かに、考えてみれば静子もワンオペ育児で頑張っていた可能性は高いですね。
恥ずかしながら、読み落としていました……。自分は精進が足りません。
幼いお子さんを育ててらっしゃる方にとっては見過ごせないですよね。
>何も喋れない赤子の24時間お世話ってだけでも結構精神やられます。しかし見つめてくる赤ちゃんには笑顔を見せたい…。だから貼り付けた笑顔でも赤ちゃんに向けます。ワンオペ育児でノイローゼでも、頑張って向ける人もいるでしょう…それが今回の一郎が去った後の歯を剥き出しにした静子なのかも。
これも読ませていただいて、自分にとっては衝撃を受けた部分でした。非常に説得力を感じます。
静子のあの表情は、ただただ不気味な笑顔だとばかり思っていました。そんな読み方は非常に浅かったですね……。
幼い静一に笑顔を向けようと頑張っていた頃を思い出しながらの行為だったとしたら、途端に静子が可哀想になってきます。
静子がしげるを突き落として以降、とかく静子の全てを狂人の色眼鏡でみてしまい、その背後にあるものを見ようとしていませんでした。
育児を頑張っている女性だからこそ、深く読み取れるのかなぁ……。
>周りに頼らない真面目な人が一生懸命子育てしたら静子になっちゃう可能性低く無いかも…と思います。これからの自分を思うと、思わずゾワッとしちゃいます…
頂いたコメントからは客観性を感じるので、まりなさんは静子のようにはならないような気がします!
静子が特別というわけではない、ということですね。
彼女の独立的な、しかし控えめで真面目な性格と、置かれた状況が重なった結果、静子の”カホゴ”が生まれたと……。
自分はてっきり、静子の過去のトラウマ、それこそ結婚するよりも前のそれが、静子が”毒親”と呼ばれるようになるのに一番の影響を与えてきた原因だと思っていました。
しかしまりなさんは、静子の真面目な性格によるワンオペ育児と、それを夫の一郎も含めて決して誰もわかってくれないという状況により、腹を痛めて産んだ愛しい子である静一だけが静子にとって唯一心を許せる味方となった、と。
過去のトラウマ云々よりも、よっぽど自然で説得力を感じます。静一を生まなければ、という
こうなってくると、それが真相であって欲しいです。
静子はただの狂人ですよ、毒親ですよ、というだけでは単なるサイコマザーですもんね。
”全て消したい、あなたも静一も私も全部”
ここで、”私も”が入っているのは、静子が真面目だということの表れですよね。
周囲に助けられず、自分も助けを求めることなくワンオペ育児に追われた。
その結果、いつしか静一だけが静子の生きがいみたいになっていたと。
それを踏まえて読むと、20話の静子のセリフはかなり自然だと感じます。
自分は読み方が非常に浅いなぁ、という想いを強くするのみです。
静子がただただ常軌を逸しているようにしか思えませんでした……。恥ずかしい。
自分は、静子がしげるを突き落とす前は、彼女がとてもまともで、他の人達がイジメに近い形で静子を冷遇していたのかな、なんてストーリーを思い描いていました。
しかし事件があって以降、静子の印象が”ヤバイ人”に一気に振り切れてしまったことで、静子の内にそれまで見出していたものを無視するようになってしまった。
このコメントのおかげで、自分が静子のことが何も見えていないと思いました。
静子に過剰なまでにサイコっぽくあって欲しい、というのは、あくまでエンタメを求める気持ちから来ているに過ぎませんね。
目からウロコがポロポロです。ありがとうございます!
>毒親って、『相手の事を1番に考えてる』って思い込んでる『自分中心』さんなんかな…?気を付けようと思いますm(_ _)m
非常に頷ける定義だと感じます。頭良いですね。
静子が頭が悪いなどとは全く思いませんが、まりなさんは静子のようにはならないと思います!
ご返信ありがとうございます!
これからの展開も本当に楽しみですね!楽しみ…も本心ですが、静一の性の目覚めも…なんだか私の息子の未来も?と想像しちゃって、、、複雑な気持ちも混ざります。笑
押見先生は本当に凄いですねー!どれだけ取材されたのか…志乃ちゃんも今度読んでみたいと思います(^^)
静一くんの性の目覚めはかなり特殊だと思います(笑)。
心配しなくても大丈夫です!
押見先生は本当にすごいですよね。
伝えたい事、表現したい事があって作家になるべくしてなった方だと思います。
志乃ちゃんは漫画はもちろん、今年上映された映画も良かったです。
ご本人が吃音で苦しんだ経験がふんだんに活かされているようです。
機会があればぜひ。